庶民とかけ離れた「フェラーリ発言」

河野太郎元外相が11月2日放送のTBS「サンデー・ジャポン」で語った発言が、波紋を呼んでいる。
暫定税率(ガソリン1リットルあたり約25円)の年内廃止に関し、河野氏は「フェラーリやポルシェに入れるガソリンを下げる必要はない」と述べ、富裕層減税への懸念を示した。
発言の意図は「本当に困っている人への支援」を訴えるものであったが、聞く側の印象はまったく異なる。「なぜ高級車を例に出すのか」「地方の現実を知らない」との批判がSNSで噴出したのは当然だ。

1.地方では“車=生活インフラ”という現実

地方在住者にとって、自動車は「ぜいたく品」ではなく「生活の足」である。
通勤・通学・買い物・通院など、公共交通の便が限られた地域では車がなければ生活が成り立たない。
ガソリン価格の上昇は、生活必需品の値上げと同義であり、家計に直撃する。
それにもかかわらず、「フェラーリ」「ポルシェ」という象徴的な高級車を持ち出した時点で、多くの庶民にとって“別世界の話”となってしまった。

河野氏はかつて行財政改革やデジタル化推進の旗手と目され、「現実に強い政治家」として期待された人物だ。しかし今回の発言は、そのイメージとは対照的な“机上の論理”を印象づける結果となった。

2.温暖化対策は正論でも、「伝え方」が致命的

河野氏の主張自体には理がある。
「温暖化が進む中で、化石燃料の使用を奨励するような政策は望ましくない」──これは世界的な流れに沿った意見だ。
また、燃費の良い車やEVへの買い替え支援に財源を振り向けるという提案も、理論的には正しい。

しかし、政治家に求められるのは「正論」よりも「共感」だ。
地方の高齢者や中小企業経営者、農林漁業者が、今この瞬間にガソリン価格高騰で困っているという現実を、どれほど理解しているのか。
「フェラーリに入れるガソリンを下げる必要はない」という例えは、温暖化対策という正論を伝える上での最悪の言葉選びだった。

3.“総理候補”の言葉としての軽さ

河野太郎氏は、かつて「ポスト安倍」「ポスト岸田」として総理候補に名を連ねた政治家である。
その人物が国民に向けて語る言葉は、単なるテレビ発言ではなく、「国家観」を映す。

今回の発言には、政策的な整合性よりも、「生活実感の欠如」が際立った。
もし「地方の軽自動車ユーザー」「配送業者」「農機を使う農家」などを例にしていたなら、印象はまるで違っただろう。
だが、フェラーリやポルシェという例えが出た瞬間、庶民はこう感じたに違いない。
──“やはりこの人も、私たちの生活を知らないのだ” と。

4.政治の言葉が「現場」と乖離したとき

政治家の発言には、言葉そのものの意味よりも、「誰の目線で語っているか」が問われる。
河野氏が意図したのは「支援の対象を絞る」という合理的な政策論だったとしても、そこに「共感の回路」が欠けていた。

日本の政治はここ数年、「上から目線」の発言が炎上する構造にある。
物価高、円安、増税といった生活圧迫の中で、政治家の言葉が一言でも現実離れすれば、国民は敏感に反応する。
“フェラーリ発言”は、その象徴的な一例となった。

5.失われた「庶民感覚」と自民党の現在地

河野氏の発言を通じて見えてくるのは、政権与党が「現場」と「政策」の間でどれほど乖離しているかという事実である。
地球温暖化への対応や財政健全化という大義を掲げつつも、国民が日々直面している「ガソリン代の高さ」「移動の不便さ」「地方の交通脆弱性」には、リアルな理解が欠けている。

「本当に困っている人に支援を」と言うならば、その“本当に困っている人”の生活を、まず自らの足で見に行くべきだ。
政治とは数字の議論ではなく、人間の生活そのものに根ざす営みである。
フェラーリでもポルシェでもない、地方の軽自動車や中古車を乗り継ぐ人々の現実にこそ、政治の焦点を当てるべきだ。

かつて「次の総理」と期待された河野太郎氏の言葉が、今や「庶民とかけ離れた発言」として受け止められている。
自民党の凋落を象徴するかのような今回の騒動は、政治家が“現実の言葉”を取り戻す必要性を、改めて突きつけている。