朝の空気は、いつもより少し静かだ。
ニュースには「情勢」「接戦」「圧勝予測」という文字が並んでいる。

今日は投票日。
この国の未来を決める、と建前では言われる一日である。

しかし多くの有権者は、胸の奥でこう感じているのではないか。

「どうせ誰がやっても、大して変わらない」と。

それでも私たちは投票所に向かう。
変わらないと知りながら、どこかで「もしかしたら」を期待してしまう。
今回、その「もしかしたら」の受け皿になっているのが、積極財政を掲げる 高市早苗自由民主党 だ。

だが、仮に圧勝したとしても、国民生活は本当に楽になるのだろうか。

冷静に考えれば、その可能性は決して高くない。

なぜ無党派層は高市路線に流れるのか

まず確認しておきたいのは、無党派層は「政治に無知な人々」ではないということだ。

むしろ逆だ。
彼らは過去三十年の現実を、身をもって知っている。

給料は上がらない。
社会保険料は増える。
税金は増える。
物価だけがじわじわと上がる。

努力しても生活は豊かにならない。

この閉塞感こそが、現在の日本社会の正体である。

だからこそ、「減税」「国債発行」「積極財政」「国内投資」といった言葉が、強く響く。
理論よりも、体感だ。

財政規律やプライマリーバランスより、
「とにかく景気を上げてほしい」という切実な願い。

それはポピュリズムというより、生存本能に近い。

溺れている人間に、「財政健全化の重要性」を説いても意味はない。
まず浮き輪が欲しいのだ。

高市路線は、その浮き輪に見えている。

しかし、積極財政は魔法ではない

もちろん、積極財政そのものは間違った政策ではない。

景気が悪いときに政府が支出を増やす。
需要を作り、賃金を押し上げる。

経済学の教科書に書いてある王道の処方箋だ。

だが、問題は「理論」ではなく「日本で実行できるか」である。

ここに決定的な壁がある。

日本では、首相の意思よりも官僚機構の論理が強い。
予算編成の主導権は事実上、財務省が握っている。

過去を振り返れば明らかだ。

安倍晋三 ですら、最終的には消費増税を止められなかった。
どれだけ強い指導力があっても、構造の壁に突き当たる。

首相一人の意志で国の財政運営を変えられるほど、日本の統治機構は単純ではない。

つまり、高市氏が何を掲げようと、
実際にできることは「一部修正」にとどまる可能性が高い。

理想は掲げられても、実装が伴わない。

ここに日本政治の慢性的な病がある。

物価高だけが残るリスク

さらに厄介なのは、今の日本のインフレは「良いインフレ」ではないという点だ。

賃金上昇が先行する需要主導型ではなく、
円安と輸入コスト高によるコストプッシュ型。

要するに「貧しくなるインフレ」である。

ここに中途半端な財政出動が加わればどうなるか。

物価だけが上がり、賃金は追いつかない。
生活はさらに苦しくなる。

いわゆるスタグフレーションだ。

積極財政が成功すれば理想的だが、
失敗すれば最悪のシナリオもあり得る。

賭け金は、私たちの家計そのものだ。

では、国民は愚かなのか

ここで「それでも自民を選ぶのは愚かだ」と言うのは簡単だ。

しかし、それは違うだろう。

現実の選択肢を見れば分かる。

どの政党にも「確実に生活が良くなる未来」は提示されていない。

緊縮か、増税か、規制緩和か、積極財政か。
どれも一長一短で、決定打がない。

つまり私たちは、「最善」を選んでいるのではない。
「まだマシそうなもの」を選んでいるだけだ。

これは自業自得というより、選択肢不足の民主主義である。

Aも地獄、Bも地獄。
その中で少し浅そうな方を選んでいるに過ぎない。

それが今の日本政治のリアルだ。

それでも投票する意味

それでも、投票には意味がある。

劇的に国が変わることはない。
誰が総理になっても、明日から給料が倍になることもない。

だが、何も選ばなければ、停滞は確実に続く。

わずかな可能性に賭ける。
それが民主主義という仕組みの、本質なのかもしれない。

期待が裏切られることは多い。
それでも私たちは、また期待してしまう。

この国の政治は、いつも「希望」と「失望」を往復してきた。

今日もまた、その繰り返しだ。

投票所へ向かう朝の道。
全国的に曇りや雪予報が多い。

日本の未来も、きっと同じだ。
劇的には変わらない。
けれど、完全に諦めることもできない。

だから私たちは、今日も一票を投じる。

それは革命の一票ではない。
ただ、沈まないための一票なのだ。