「誰も排除しない決済」の必要性

クレジットカードは、現代社会における最も普及した決済手段の一つである。ネット通販から日常の買い物まで、キャッシュレス化の波に伴って利用機会は増え続けている。しかし、日本では2025年4月から大きな制度変更が実施された。クレジットカード決済時の「サイン」方式が全面的に廃止され、暗証番号(PIN)の入力が必須化されたのである。

その背景には、年間500億円を超える不正利用被害がある。不正防止を目的とした厳格化は理解できるが、その一方で深刻な課題が生まれた。視覚障がい者などPIN入力が困難な人々の存在である。従来、署名は「筆記」というアナログ手段で本人確認を行っていたため、補助具や店員のサポートで解決できた。しかし「PIN入力必須化」は、視覚障がい者を事実上決済の場から排除するリスクを孕んでいる。

この記事では、なぜこのような制度変更が行われたのか、海外ではどうか、そして「視覚に障がいがあっても安心して決済できる社会」をどう実現するかを多角的に論じていく。

1. クレジットカード決済の歴史とサイン方式の役割

1-1. クレジットカードの起源とサイン文化

クレジットカードは20世紀半ばに米国で普及した。ダイナースクラブ、アメリカン・エキスプレスなどの黎明期カード会社は、カード提示とサインを通じて信用を担保した。「カード利用者のサイン」こそが本人確認の唯一の方法であり、それは文化的にも「契約の署名」が重んじられる欧米社会に根ざしていた。

1-2. サインからICチップへ

1990年代以降、磁気ストライプカードの脆弱性が問題となり、ICチップを搭載したカードが導入された。ICチップは暗号技術を用いて改ざんを防ぐが、それだけでは本人確認にならないため、PIN入力が推奨された。しかし当時はPIN文化が浸透していなかったため、多くの国では「サイン」も併用された。

1-3. 日本の「サイン廃止」

日本は長く「サイン決済」が主流だったが、不正利用額が急増したことで金融庁・経産省・日本クレジット協会の方針により、2025年4月からPIN必須化が実施された。加盟店には「PINスキップ機能」や「電話承認」による対応策が提示されたが、これが視覚障がい者に十分配慮しているかは疑問が残る。

2. 海外におけるサイン廃止と国際比較

2-1. 北米の事例

米国では2018年にVisa、Mastercard、Discover、American Expressが署名不要化を発表した。背景には、取引データの電子化、オンライン不正検知システムの高度化があった。ただし完全なPIN必須ではなく、「署名は不要」だが「PINも任意」という運用が多く、日本ほど徹底していない

2-2. オーストラリアとニュージーランド

2014年、オーストラリアとニュージーランドはサインを廃止しPINのみへ移行した先進事例だ。安全性は高まったが、当初は高齢者や障がい者への対応不足が問題視された。

2-3. 欧州諸国

オランダやスウェーデンなどの欧州諸国は、早くから**「チップ+PIN」方式を標準としており、サインはほとんど使われていない。ところがヨーロッパでは並行して音声ガイド付き端末アクセシビリティ機能の整備**が進められ、日本と比べ弱者対応が制度的に保障されている。

2-4. 日本の特殊性

こうした比較から浮かび上がるのは、日本だけが「PIN必須」を一律に課したという特殊性である。他国は「サインを廃止」しても代替手段を多様に用意したが、日本は「PIN以外を排除」した。この一元化が、視覚障がい者や高齢者に深刻な負担を与えている。

3. PIN入力が困難な人々の現実

3-1. 視覚障がい者の困難

視覚障がい者にとって、PIN入力は大きなハードルである。

  • タッチパネル式端末は位置がわかりにくい
  • 音声ガイドが搭載されていない端末が多い
  • 周囲の目を気にして声に出せない
  • 店員に代わりに入力してもらうことは規則で禁止

つまり、「PIN必須」は実質的に決済拒否と同じ効果を持ちかねない。

3-2. 高齢者や手の不自由な人

加齢による視力低下や手の震えも、PIN入力を困難にする要因だ。サインは比較的自由に書けたが、PINは「4桁の正確な数字入力」という制約があるため、失敗が増える。

3-3. 心理的ハードル

PIN入力が必須化されることで「迷惑をかけてはいけない」というプレッシャーを感じ、カード利用を避ける障がい者も出てきている。金融排除(financial exclusion)のリスクが現実化しつつある。

4. 代替手段は本当に十分か?

4-1. PINスキップ機能

一部端末には「PINスキップ」機能があるが、加盟店によって対応状況が異なる。店員教育も不十分で、障がい者が利用を申し出ても「そんな機能はありません」と断られる事例がある。

4-2. 電話承認

PINスキップ機能がない場合、オーソリセンターに電話して承認番号を取得する。だがこれは店舗にとって負担が大きく、繁忙時には現実的に難しい。お客様も「時間を取らせる」ことで肩身の狭い思いをする。

4-3. 本質的な解決策になっていない

つまり、日本の「代替策」は形式的な救済措置にすぎず、当事者が安心して利用できる仕組みにはなっていない

5. 技術革新による解決の可能性

5-1. 生体認証の導入

指紋認証や顔認証を使った決済は、スマートフォンでは既に一般的である。クレジットカード端末にこれを導入すれば、視覚障がい者もPINを入力せずに本人確認ができる。

5-2. 音声ガイド付き端末

欧州の一部では、カード端末にイヤホンを差し込むと音声ガイドが流れる仕組みが導入されている。こうしたアクセシビリティ機能を義務化すべきだろう。

5-3. スマホ決済の活用

バーコード決済(PayPay、LINE Payなど)やApple Pay、Google PayはPIN入力を求めないことが多い。特にステーブルコインを利用したウォレット決済が普及すれば、障がい者にも使いやすい決済環境が整う。

5-4. ステーブルコイン決済の可能性

ドルや円に連動したステーブルコインは、暗号資産でありながら価格が安定している。国際的にも「次世代の決済インフラ」と目されており、日本でも法制度整備が進みつつある。視覚障がい者に優しいUI設計を取り入れることができれば、クレジットカードに代わる手段となる。

6. 当事者の声

  • 全盲の利用者
    「サインならなんとかできたが、PINはまったく無理。結局、現金を持ち歩かざるを得ない。」
  • 弱視の利用者
    「店員にお願いすると断られることもあり、買い物が苦痛になった。安心して使える仕組みが欲しい。」
  • 高齢の利用者
    「数字の入力が間違えやすく、3回エラーでロックされてしまった。サインに戻してほしい。」

これらの声は、「安全」と引き換えに「公平性」が失われている現実を突きつけている。

7. 政策提言──安心して決済できる社会へ

  1. PIN以外の本人確認手段を認める
    生体認証や音声ガイド付き端末を標準化すべき。
  2. 金融アクセシビリティ法制化
    障がい者が金融サービスを差別なく利用できるよう、法的に保障する必要がある。
  3. 多様な決済手段の共存
    クレジットカードに固執せず、QR決済やステーブルコインなど多様な選択肢を推進する。
  4. 加盟店教育の徹底
    PINスキップや電話承認の正しい運用を店員に周知すること。
  5. 国際水準との整合性
    日本だけが「PIN強制」を続けるのではなく、欧米のように「安全と柔軟性の両立」を図る。

弱者を排除する決済は「進歩」ではない

不正利用防止のためのPIN必須化は、一見合理的に見える。しかしそれは「誰もが安心して使える決済社会」という理想を遠ざける結果となっている。視覚障がい者や高齢者を排除する仕組みは、進歩ではなく退行である

クレジットカード会社は、セキュリティとアクセシビリティの両立を果たす責任を負っている。今後の社会では、ステーブルコインやバーコード決済など新しい選択肢が台頭するだろう。もしクレジットカード業界が柔軟に対応できなければ、「使えない決済手段」として淘汰される可能性すらある。

「視覚に障がいがあっても安心して決済できる社会」。その実現のために、私たちは声を上げ続ける必要がある。