なぜ日本だけ“官民デジタル格差”が広がったのか?
民間のITサービスは年々高速化し、AIやクラウドを活用する企業は爆発的に増えている。一方で行政は、依然として紙、FAX、個別システムの縦割り構造に縛られ、多くの国民が日常的にその不便を体験している。
ではなぜ、これほどの格差が生まれたのか。
第一に、行政システムの更新サイクルの遅さが挙げられる。民間企業は数年単位で基幹システムを刷新するが、行政は「調達手続き」「予算編成」「議会承認」「検収」など、更新までのハードルが圧倒的に高い。特に自治体の基幹業務システム(住民情報、税、福祉関連など)は10〜20年単位での更新が当たり前になっている。
第二に、ベンダーロックイン(特定企業依存)がある。行政システムは導入当初の仕様が複雑で、更新時に別ベンダーへ乗り換えるのが困難だ。その結果、同じ会社が長期間にわたり運用を独占し、競争が生まれない。これは政府資料でも「構造的問題」として何度も指摘されてきた。
第三に、“標準化”の遅れである。日本の自治体は1741と数が多く、それぞれが独自のシステムを抱えている。自治体によって住民票の様式が異なるように、デジタルシステムも完全にバラバラだ。クラウド化やデータ連携が進まない根本的原因はこの“非標準化”にある。
こうした問題が重なり、民間がAIやクラウドを高速に取り入れる一方、行政は旧来システムの維持に多大なコストを払い続ける構造が固定化した。
「紙とハンコ」の背景にある“制度そのものの古さ”とは?
日本の行政では、未だに紙ベースの運用が多く残っている。
その背景には、単に「デジタル化が遅れている」だけではない。問題の核心は、業務プロセスが昭和の制度を前提に設計されているという点だ。
例えば、行政手続きでは「本人確認」「押印」「原本提出」などが重視されてきた。これは不正防止という観点では正当だが、デジタル前提の設計ではないため、そのままオンライン化しようとすると途端に複雑化する。
また、多くの法律が「書面による提出」「押印」を前提に作られており、これらを変えるには法改正が必要だ。デジタル化は技術の問題ではなく、制度の問題へと発展しやすい。
つまり、行政のデジタル化を阻んでいるのは「紙文化」と言われる表層ではなく、根底にある制度設計そのもののアップデートの遅れである。
自治体システム標準化はなぜ抵抗を受けるのか?
2025年度までに進められている「全国の自治体基幹システムの標準化」は、デジタル庁が最重要施策として掲げるプロジェクトである。
しかし現場では、標準化への強い抵抗や不安も根強い。なぜか。
理由は三つある。
① 現場の業務に“現実の多様性”がある
自治体には財政規模、人口、産業構造などの違いがあり、業務フローも異なる。
標準化が進むと「自分たちの地域事情に合わない」と考える自治体が一定数存在する。
② 既存ベンダーとの関係性
自治体とシステムベンダーは長年の関係で成り立ち、担当者同士の信頼関係がある。
標準化でベンダー構造が変われば、その関係はリセットされる。これは現場にとって大きな心理的負担だ。
③ 移行コスト・人材不足
住民情報システムは24時間365日稼働し、停止すると行政サービスが止まる。
そのため、移行には膨大な準備と人員が必要だ。しかし自治体は慢性的な人手不足のため、移行作業自体が重い。
このように、標準化は“正しい施策”でありながら、現場には現実的な負担を伴うため、完全な移行までには時間を要するのが実態だ。
マイナンバーは本当に“使えない制度”なのか?
国民の間では「マイナンバーは不便」「不具合が多い」というイメージが根強い。
しかしこれは、制度そのものの欠陥よりも運用設計と既存システムとの接続の問題が大きい。
マイナンバー制度は、本来は「国民と行政データを紐づける基盤」として設計されている。
だが実際には、
- 自治体システムの非標準化
- 医療・保険・税のデータ連携の遅れ
- 省庁間のデータ共有制約
- マイナンバーカード普及のばらつき
といった構造的課題が積み重なり、本来の効果が発揮できていない。
特に、2023〜24年の紐づけ不備問題が象徴的だった。これはマイナンバー制度の問題ではなく、現場の入力作業と旧システムとの結合不一致が原因であり、制度設計そのものの評価とは別に考える必要がある。
つまり、マイナンバーは「活用不足」であって「欠陥制度」ではない。
むしろ、標準化とデータ連携が進めば、大幅な行政効率化の中核になりうる。
行政は本当にクラウド化できるのか──技術的・制度的制約は何か?
民間ではクラウド移行が当たり前になったが、行政では慎重論が根強い。
理由は以下の通りである。
●(1)機密性の高さ
住民情報は国家レベルの個人データであり、漏洩リスクは許されない。
そのため「政府クラウド(ガバメントクラウド)」での運用を前提とするが、現状のサービス選定は限定的で柔軟性が低い。
●(2)24時間稼働の要件
住民票、税、福祉などの基幹システムは“止まることが許されない”。
これをクラウドで安定維持するためには、従来以上の設計と監視体制が求められる。
●(3)自治体ごとの通信環境の違い
都市部と地方ではネットワーク品質が異なる。
クラウド前提のシステムは安定通信が必須であり、地方自治体の中には整備が追いついていない地域もある。
これらの課題から、行政のクラウド移行は「一気に進む」ものではなく、「段階的に実現していく」性質のものだ。
AI時代に行政は“追いつける”のか?
2024〜25年、AIは急速に普及した。
ではAIを行政に適用すれば、一気に格差は解消されるのだろうか。
筆者の独自分析として、AI導入の本質的課題は次の三つに集約される。
【独自分析①】行政データは“構造化されていない”
行政の文書はPDFや紙ベースが多く、データ整形が必要。
AI導入は「データの整備」が前提となるが、自治体にはその人的リソースが不足している。
【独自分析②】AIは“例外処理”に弱い
行政手続きは多様で、例外条件や個別事情が非常に多い。
AIにとって例外処理は苦手であり、人間の判断が不可欠である。
【独自分析③】AI導入には“透明性”が必要
行政の意思決定は説明責任が求められる。
AIの判断根拠(Explainability)は重要であり、欧米ではすでに「AI透明性法」の議論が進む。
日本はまだ制度設計が追いついていない。
つまり、AIは行政に大きな可能性をもたらす一方、現在のデータ構造や制度環境のままでは“即効薬”にはならない。
では日本はどうすれば官民デジタル格差を埋められるのか?
筆者による結論は以下である。
① 標準化・クラウド化を「政治判断」で加速する
現状のスピードでは官民格差は縮まらない。
標準化・クラウド化は自治体任せでは進みにくく、国が責任を持って推進すべき領域である。
② 法律・制度の“デジタル前提化”
行政手続きの根本となる法律をデジタル前提に改めることで、紙・押印文化は自然に解消される。
③ データガバナンスの再設計
マイナンバーを軸としたデータ連携を強化し、情報の一元管理を進める。
④ 少人数自治体への支援強化
人材不足の自治体向けに「共同利用型」や「アウトソース型」を拡大し、デジタル格差を縮小する。
⑤ AI活用は“業務の標準化”とセットで行う
AIは“標準化済みの業務”でこそ効果を発揮する。
先に制度を整え、その上でAIを本格導入すべきである。
総括──官民デジタル格差は「技術格差」ではなく「制度格差」である
日本の官民デジタル格差は、単に行政のIT投資が少ないからではない。
本質的には、
- 制度の古さ
- 標準化の遅れ
- ベンダーロックイン
- データ連携不足
- 人材不足
といった構造的な問題の集合体である。
だからこそ、技術だけで解決できない。
しかし同時に、標準化、制度刷新、クラウド化、AI導入が揃えば、行政は民間と同じスピードで変わる可能性を持つ。
日本の行政デジタル化は“遅い”のではなく、複雑な構造を順に解きほぐす必要がある段階にいると言える。
その構造的課題をどう乗り越えるかが、日本の未来の行政サービスを左右する。
