「多様性」はなぜここまで語られるようになったのか?
近年、「多様性(ダイバーシティ)」という言葉は、企業理念、教育現場、政治スローガンに至るまで、あらゆる場所で使われている。
性別、国籍、障害、宗教、職業、生き方──かつては「例外」とされてきた属性が、今では積極的に可視化され、「尊重すべきもの」として語られる時代になった。
しかし、若者世代の間では、この言葉に対する距離感が一様ではない。
「多様性は大切だと思うが、正直、押しつけがましいと感じることもある」
「多様性を尊重すると言いながら、別の“正しさ”を強要されている気がする」
こうした声は、単なる反発ではない。むしろ彼らは、「多様性とは何か」という問いを、これまでよりも根本的なレベルで考え始めている。
若者は「違い」ではなく何を見ているのか?
従来の多様性論は、「人はそれぞれ違う」という前提を強調してきた。
だが、若者の関心はそこにとどまらない。
彼らが見ているのは、「違い」そのものではなく、違いがある中で、なぜ同じ扱いをされないのか、あるいはなぜ説明を求められるのかという構造だ。
例えば、
- なぜ特定の生き方だけが「普通」とされるのか
- なぜ少数派は、自分の選択を語らなければならないのか
- なぜ“理解される側”が努力を求められるのか
こうした疑問は、「多様性を守れ」というスローガンよりも、はるかに個人的で切実である。
「普通」という言葉は誰のために存在してきたのか?
「普通」という言葉は、一見すると中立的だ。
だが実際には、社会の多数派が安心して生きるための“基準”として機能してきた。
学校、会社、家庭、地域社会。
そこでは常に、「普通ならこうする」「普通はそう考えない」という形で、暗黙の線引きが行われてきた。
若者世代が違和感を覚えるのは、この「普通」が、説明も合意もなく、既成事実として押し付けられてきた点にある。
彼らにとって問題なのは、「普通が存在すること」ではない。
普通が絶対化され、そこから外れることが“問題”として扱われる構造そのものだ。
多様性とは「理解」ではなく「干渉しない自由」である
ここで、若者世代の多様性観を一言でまとめるなら、それは「理解」よりも「非干渉」に近い。
必ずしも、
- すべてを分かり合う必要はない
- すべてに共感する必要もない
ただし、
- 否定しない
- 決めつけない
- 生き方を矯正しない
この距離感こそが、彼らの考える「個の尊重」だ。
これは、従来型の「話し合って理解し合おう」という理想論とは少し異なる。
むしろ、「他人の選択に踏み込まない」という、静かな倫理観である。
なぜ若者は「正しさの競争」を避けるのか?
SNSの普及により、若者は幼い頃から「意見が可視化され、評価され、炎上する世界」を経験してきた。
その結果、「正しいことを言う」こと自体がリスクになる場面を数多く見てきた。
この経験は、次のような価値観を生んでいる。
- 正しさは立場によって変わる
- 声が大きい意見が必ずしも正しいわけではない
- 誰かの正義が、誰かを傷つけることがある
だからこそ彼らは、多様性を「新たな正義」にしようとはしない。
むしろ、「正義同士をぶつけないための知恵」として、多様性を捉えている。
日本社会における「多様性疲れ」はなぜ起きるのか?
日本では近年、「多様性疲れ」とも言える反応が見られる。
その背景には、次のような要因がある。
- 多様性が理念として先行し、現場の納得が追いついていない
- 反対意見を言いにくい空気が生まれている
- 多様性が“評価項目”や“義務”に変質している
若者が距離を置くのは、多様性そのものではなく、多様性を掲げる側の硬直した姿勢である場合が多い。
これからの多様性は「静かな共存」へ向かう
今後、日本社会で求められる多様性の姿は、声高な主張でも、制度の数値目標でもないだろう。
- 他人の人生に過度な意味づけをしない
- 違いを説明させない
- “普通”を一つに決めない
こうした「静かな共存」が、若者世代の感覚に最も近い。
多様性とは、誰かを特別扱いすることでも、称賛することでもない。
ただ、同じ社会に存在していることを、問題にしないこと。
若者たちは、そのシンプルで難しい価値に、すでに気づき始めている。
