生成AIは「創造」しているのか?
近年、ChatGPTやStable Diffusionのような生成AIは、文章・イラスト・音楽などあらゆる表現を生み出しています。人々の目には「新しい作品を創造している」と映るかもしれません。しかし、果たしてそれは人間と同じ意味での「創造」と呼べるのでしょうか。
AIは膨大なデータを学習し、統計的に「もっともらしい」出力を生み出します。つまりその過程は、人間が直感や感情、経験に基づいて新たな発想を生み出すプロセスとは本質的に異なります。
では、AIが生み出した成果物に著作権は認められるのか、人間の創作とどう区別すべきかが大きな論点となっています。
著作権法が想定している「作者」とは誰か?
日本の著作権法では「思想または感情を創作的に表現したもの」が保護対象とされ、その「著作者」は人間であることを前提としています。
文化庁も2023年に示した見解で「AIが自律的に生成したものは著作物に該当しない」と明言しました。つまり、AI単独で作られた作品には著作権は発生せず、利用者や開発者が「著作者」になることは基本的にないということです。
一方で、ユーザーがプロンプトを工夫してAIに特定の指示を与えた場合、それが「創作的な関与」と評価されれば著作権が認められる可能性があります。しかしその線引きは非常に曖昧で、司法判断もまだ整っていません。
AIによる模倣とオリジナリティの問題
生成AIは学習に用いたデータを参照して出力を組み合わせています。そのため、特定の作家の画風や文章を「模倣」することが可能です。ユーザーが「村上春樹風の小説を書いて」と指示すれば、確かに似た文体のテキストが出てきます。
ここで重要なのは「似ている」ことと「盗作である」ことの区別です。AIが訓練で学んだ無数の要素を再構成しているだけなら盗作には当たらないという見方もあります。しかし、学習データに含まれた既存作品の一部をほぼそのまま出力してしまうケースも報告されており、その場合は著作権侵害の可能性が否定できません。
この境界線をどう引くのかは、技術的にも法的にも非常に難しい課題です。
「創造性」をどう定義するか?
AIが出力するものに対して「創造的だ」と感じるのは、人間がそれを新鮮で意味あるものとして受け止めるからです。しかし、AI自身が意図を持って新しい価値を生み出しているわけではありません。
人間にとっての創造性は「経験・記憶・感情を統合して独自の表現を生む力」と言えるでしょう。一方AIは、膨大な過去データから統計的に「次に来る可能性の高いパターン」を導くだけです。
この違いを直視すれば、「AIの創造性」とは本来メタファーに過ぎず、人間の創造性とは異質のものだと理解できます。
世界各国の議論と法整備の動き
アメリカでは、著作権局が2023年に「AI生成画像は著作権を持たない」と判断しました。一方で、漫画作品の一部をAIで生成した事例では、人間が構成やストーリーを考えた部分については著作権を認めています。
イギリスやEUでも議論が進んでおり、「AI創作物の権利を誰が持つのか」という問題は国際的に揺れています。特許や商標においても同様で、「AI発明者」を認めるかどうかを巡る裁判が世界各地で起きています。
こうした動きから見えてくるのは、「AIが関与した作品」への社会的関心の高さと、従来の法制度の限界です。
日本社会にとっての課題
日本ではマンガ、アニメ、ゲームといったコンテンツ産業が大きな柱です。もし生成AIが既存の作風を模倣し、著作権侵害を生むリスクが放置されれば、クリエイターの権利が損なわれる懸念があります。
一方で、AIを活用した新しい創作の可能性を制限しすぎれば、産業全体の競争力を損なう恐れもあります。日本が取るべき方針は、クリエイターを保護しつつ、AIを適切に活用できる「バランス」の模索です。
AIと人間の協働こそ未来
当コラムではAIを人間の創造力を補完する「道具」として捉えるべきだと考えます。
例えば、アイデア出しの初期段階でAIに大量の候補を生成させ、人間が取捨選択し編集するという使い方は有効です。その場合、最終的な価値を決定するのは人間であり、著作権を持つのも人間です。
つまり「AI単独」ではなく「人間が関与した形」でこそ創作は成立し、法的にも社会的にも正当性を持ちうるのです。
生成AIをめぐる著作権論争はまだ始まったばかりです。今後の法改正や判例の積み重ねとともに、人間の創造性をどう定義し、AIとの境界線をどのように引くのか──その議論は日本社会にとって避けて通れない課題となるでしょう。