「あのニュース、そんなに大事ですか?」

静岡県伊東市の田久保眞紀市長が、大学の学歴を「卒業」と偽っていた疑惑で連日報道されている。全国ネットのニュース番組でも取り上げられ、SNSでは百条委員会の様子が動画で拡散されるなど、話題は全国に広がっている。

だが、内心こう思った人も多いのではないか──「たかが地方市長の学歴で、そんなに騒ぐことなのか?」と。実際、SNS上には次のような声が並ぶ。

「正直、どうでもいい」「もっと大事な問題があるだろ」
「小池都知事の“カイロ大学問題”はスルーなのに、なぜ伊東市長だけ?」

このような「冷めた世間の空気」に対して、報道だけがヒートアップする現象はなぜ起きるのか。そこには、「地方のスキャンダルが炎上しやすい構造」と「報じやすさの都合」が深く関係している。

田久保市長の“学歴詐称疑惑”とは何か

まず、事実関係を整理しておこう。

伊東市の田久保眞紀市長は、自らの経歴として「東洋大学法学部卒業」と公式プロフィールに記載していた。だが、2025年7月に市議会の百条委員会で市の広報誌や答弁内容をめぐって調査が入り、東洋大学に問い合わせた結果「除籍」だったことが公式に判明。この時点で、学歴詐称の疑いはほぼ“確定”した。

市長は百条委への出席を拒否し、疑惑は深まる一方。市の広報誌でも「卒業」と記載されていた内容が、「除籍」へと訂正された。

証人尋問では「市長の同級生を名乗る人物が偽の卒業証書を作成した」という証言も飛び出し、報道は一層過熱。市長本人は「7月末に進退を判断する」と発言しており、注目はクライマックスを迎えている。

なぜ「どうでもいい」と感じてしまうのか

この問題が報道されるたびに、「もっと重要な問題があるだろう」という声が漏れ出す。実際に日本全国には、はるかに大きな影響を持つ問題が山積している。

  • 都市部で進む教育格差と少子高齢化
  • 国政の停滞と外交問題
  • 物価上昇と生活苦
  • デジタル化・AI時代への制度整備の遅れ

こうした問題に比べれば、伊東市という人口6万人の地方都市の市長の“学歴”は、国家的には確かに些細に見える。だからこそ、「どうでもいいのでは?」という感覚が、日本人の集合意識として自然に生まれてしまう。

だが、それでもテレビ・新聞・ネットニュースが連日取り上げ続けるのは、別の理由がある。

地方政治スキャンダルが“報じやすい”理由

実は、地方自治体の不祥事やスキャンダルは、メディアにとって極めて「扱いやすいネタ」なのだ。以下のような特性がある。

1. 小規模で取材が容易

地方議会や市役所は情報公開が進んでおり、記者が直接話を聞きやすい。証拠も出やすく、住民・職員からの内部情報も集まりやすい。

2. 主人公が明確で、ストーリーにしやすい

「経歴に嘘をついた市長 vs 議会が追及」という構図は、単純でわかりやすい。視聴者にも理解されやすく、共感や怒りを引き出しやすい。

3. 叩いても“反撃リスク”が少ない

地方の市長には、全国メディアに強く抗議したり訴訟を起こす力がない。大手企業や国政政治家と違い、“安全に報道できる”対象でもある。

4. 映像映え・SNS映えする

百条委員会での尋問映像や、書類をめぐるドタバタ劇は、切り抜き動画としてもバズりやすく、広告収入にもつながりやすい。

なぜ田久保市長は叩かれ、小池都知事は叩かれないのか?

田久保市長の学歴詐称疑惑については、すでに東洋大学からの公式回答で「除籍」が確認されており、「卒業」との記載が虚偽だったことは確定的である。このため、メディアも“クロ”と認識した上で報道に踏み切っている。

一方、小池都知事の「カイロ大学卒業問題」は長年疑念を呼んできたが、大学側が「卒業は事実」とする見解を公式に出しているため、国内メディアが「報道しづらい構造」が存在する。

加えて、海外の大学であることから調査・検証の難易度が高く、取材のハードルも上がる。国内の大学からの「除籍確認」という明確な根拠がある伊東市長のケースとは、“報道可能性の条件”が大きく異なるのだ。

問題の大きさと報道量は一致しない

ここで重要なのは、「どれだけ報道されているか」が「どれだけ重大か」を意味するわけではない、という点である。

  • 田久保市長の問題は、事実関係が確定しており報じやすいため報道が集中した。
  • 小池都知事の問題は、疑念が残るにとどまり、報道側にとってハードルが高いため、触れにくい。

このように、「問題の中身」ではなく「問題の扱いやすさ」が、報道の量と温度を決めている構図がある。

情報との距離感を持つということ

本稿は、田久保市長の学歴詐称を擁護するものではない。公人としての経歴詐称は当然、説明責任を伴う。

だが、報道の“熱”と世論の“温度差”に違和感を覚えたとき、そこにこそ「報道の構造」が見える。

「なぜ、いま、この問題が、これほどまでに報道されるのか?」
その視点こそが、情報に対して主権者が持つべき初歩的なメディアリテラシーなのだ。

「どうでもいい」と感じるのは、鈍感ではなく“感性”かもしれない

私たちが「この問題、そこまで大事か?」と感じること。それはある種の冷静さであり、「生活実感との距離」を察知する感性なのかもしれない。

そして、情報に触れるときに必要なのは、その感性を「疑う力」につなげることだ。

ニュースは常に編集された“現実”である。
その編集方針に自覚的になること──それこそが、フェイクでも陰謀論でもない、「本当の現実」に近づく第一歩なのである。