物価高への不満がこれほど強いのに、なぜ日本ではフランスやイタリアのような大規模デモやストライキが起きないのか。結論から言えば、日本人が穏やかだからではない。欧州より物価上昇が緩やかだった事情に加え、不満を政治行動へ変える習慣と組織を戦後の日本社会が失ってきたからだ。しかも日本人は昔から「抗議しない民族」だったわけではない。

日本の物価高は欧州ほど激しかったのか?

日本の物価高は決して軽くないが、2022年前後に欧州を襲ったインフレの規模と比較すれば、上昇幅はかなり小さかった。

「日本も欧米並みの物価高になった」と考えている人は少なくない。しかし数字を見ると、そこにはかなり大きな差がある。

ユーロ圏の消費者物価上昇率は、エネルギー危機が深刻化した2022年10月に前年同月比10.6%まで上昇した。EU全体では11.5%であり、文字どおり二桁インフレだった。EU統計局(Eurostat)が公表した数字である。

一方、日本の総務省統計局によると、日本の消費者物価指数は2023年1月に前年同月比4.3%上昇した。日本にとっては大きな物価上昇だったが、欧州のピーク時とは明らかに規模が違う。

違いを単純化すれば、次のようになる。

  • ユーロ圏では2022年に二桁のインフレを経験した
  • 日本では同時期の物価上昇はおおむね数%台だった
  • 欧州ではエネルギー価格の急騰が家計を直撃した
  • 日本では政府の補助策などによって価格上昇の一部が抑えられた

もちろん、日本人が「たった4%程度なのだから我慢しろ」と言われる筋合いはない。長い賃金停滞の後で食品や光熱費が上がれば、家計への打撃は十分に大きい。

ただし、30年近く低インフレやデフレに慣れてきた日本社会が、数%の物価上昇を極端な異常事態として受け止めている面も否定できない。いわば「価格がほとんど上がらない社会」に慣れすぎた反動でもある。

それでも欧州ではなぜ人々が街頭に出るのか?

フランスやイタリアの抗議行動は物価高だけが原因ではなく、生活費、公共サービス、財政政策への不満が重なって街頭政治へ発展している。

2026年10月、フランスでは生活費の上昇や公共サービスへの不満を背景とした大規模な抗議行動が広がり、その一部が暴動や略奪へ発展した。イタリアでもミラノなどで生活費高騰や公共サービスへの不満を訴える抗議参加者と警察との衝突が発生している。

ここで注意したいのは、デモと暴動は同じではないということである。政策への抗議として行われるデモやストライキと、放火、破壊、略奪は明確に分けて考えなければならない。

しかし、日本との違いを考えるうえで重要なのは暴動そのものではない。その手前にある「不満があれば街頭に出て政府へ圧力をかける」という行動様式である。

現在の物価にも差がある。フランス国立統計経済研究所(INSEE)によると、2026年9月のフランスの消費者物価は前年同月比3.1%上昇し、エネルギー価格は21.3%上昇した。イタリア国家統計局(ISTAT)では同月の消費者物価が4.2%上昇している。

日本の総務省統計局が公表した2026年8月の全国消費者物価指数は前年同月比1.9%上昇だった。現在の数字だけを見ても欧州の方が強いインフレ圧力を受けているが、それだけで抗議行動の差を説明することはできない。

フランスは「革命の国」だから抗議するのか?

フランス革命の歴史は象徴的だが、本当の違いは「政府に圧力をかけることを政治参加の一部と考える文化」が現在まで続いている点にある。

1789年のフランス革命を持ち出せば、「フランス人は昔から権力に逆らう国民だから」で話を終わらせることもできる。しかし、それでは少々雑である。

重要なのは、革命そのものより、その後200年以上にわたってデモ、労働運動、ストライキ、大衆運動が繰り返されてきたことだ。政府が政策を打ち出せば、それに反対する人々が街頭へ出ることは、フランス政治において珍しい光景ではない。

年金改革、労働法改正、燃料価格、教育、公共サービス。争点は時代によって変わっても、「選挙が終わったら次の選挙まで黙っている」という発想にはならない。

ここには日本との大きな差がある。

フランスでは政府に対して、

  • 投票する
  • デモをする
  • ストライキをする
  • 労働組合を通じて要求する
  • 政府が譲歩するまで圧力をかける

という複数の政治参加手段が存在する。

もちろん、道路を封鎖したり交通機関を止めたりすれば、無関係の市民にも迷惑はかかる。暴力まで発展すれば正当化することはできない。

それでも、「政治は政治家に任せるものではなく、自分たちが圧力をかけて変えるものだ」という感覚が残っている。この点は、日本人がフランスから最も学ぶべき部分かもしれない。

日本人は本当に昔から「抗議しない民族」なのか?

日本人が生まれつき従順だという説明は歴史的に成立せず、日本でも物価高や政治への不満から大規模な民衆運動が何度も起きている。

「日本人は権力に従順な民族だからデモをしない」という説明は分かりやすい。しかし歴史を見ると、それほど単純ではない。

象徴的なのが1918年の米騒動である。

第一次世界大戦期の米価高騰によって生活が圧迫されると、富山県で始まった抗議が全国へ広がった。国立国会図書館の「近代日本人の肖像・近代日本史料」によれば、新聞報道をきっかけに騒動は各地へ波及し、神戸では商店などへの襲撃や放火まで発生した。寺内正毅内閣は米騒動収束後の同年9月に総辞職している。

つまり約100年前の日本人は、「米が高すぎる」と怒って街へ出ていたのである。

戦後日本にも巨大な抗議運動があった

戦後にも1960年の安保闘争がある。日米安全保障条約改定をめぐって学生、労働者だけでなく一般市民まで参加する巨大な政治運動となった。

2024年に日本社会学会の『社会学評論』に掲載された研究でも、1960年安保闘争では、もともと沿道で見ていた無党派の人々がデモへ参加していく現象が分析されている。つまり当時は「普通の人が途中から政治運動に加わる」社会的空気が存在していた。

日本にはさらに、自由民権運動、労働争議、農民運動、公害反対運動などの歴史もある。

したがって、「日本人には自由を求めて行動する伝統がない」とまで言い切るのは正確ではない。むしろ問うべきなのは、かつて行動していた日本人が、なぜこれほど行動しなくなったのかである。

明治維新は「国民が自由を勝ち取った革命」ではなかった

明治維新は日本社会を大きく変えた革命的変革だったが、フランス革命のように一般民衆が政治的自由を求めて旧体制を倒した市民革命とは性格が異なる。

この違いは、日本とフランスの政治文化を考えるうえで無視できない。

フランス革命では、王権や身分制への反発を背景に市民や民衆が政治の主体として登場した。その過程には恐怖政治や大量の犠牲もあり、美化できるものではないが、「政治的権利は上から与えられるものではない」という記憶をフランス社会に残した。

一方、明治維新を主導したのは薩摩・長州などを中心とする武士勢力だった。幕府を倒したのも、新政府をつくったのも、基本的には旧支配層内部から出てきた政治・軍事勢力である。なぜか幕末物が多い大河ドラマを見てきた人なら、ここは改めて説明するまでもないだろう。

一般庶民が「自由、参政権、主権」を掲げて江戸幕府を倒したわけではない。

その後、自由民権運動によって国会開設や憲法制定を求める運動が広がったものの、日本の近代国家建設は基本的に上から進められた。ここはフランスとは確かに違う。

さらに戦後の民主主義も、日本の敗戦と連合国軍による占領改革の中で制度化された側面が大きい。

だからといって「日本人は自由を勝ち取った経験が一度もない」と言えば言い過ぎだが、国家体制が民衆革命によって転覆され、その結果として政治的権利が形成されたという経験を日本は持たない。この歴史的差は小さくない。

日本人はなぜ「文句は言うが行動しない」のか?

現在の日本では不満そのものは強い一方、それを集団行動へ変換する政治文化と社会的な回路が弱くなっている。

「日本人は物価高に不満を持っていない」という説明は明らかに間違っている。

内閣府の「社会意識に関する世論調査(令和7年10月調査)」では、日本が悪い方向へ向かっている分野として「物価」を挙げた人が73.0%で最多だった。物価への不満は十分に存在している。

問題は、その次である。

スーパーで「高くなった」と言う。テレビの街頭インタビューでも「生活が苦しい」と答える。SNSでは政府への不満を書く。

もっとも、日本人が街頭に出ないからといって、政治がまったく動かないわけではない。政府は2027年4月から、飲食料品の消費税率を1%へ引き下げる方針を打ち出しており、物価高対策としては家計に直接響く大きな政策変更である。

つまり日本では、フランスのように道路を封鎖し、警察と衝突しなくても、選挙や世論、支持率を通じて政治が動くことはある。この点は「日本人は何もしない」と単純に切り捨てる際の重要な反論になる。

ただし問題は、その静かな圧力だけで十分なのかということだ。政治が世論に反応しなくなったとき、日本人にはその先の圧力手段がほとんど残っていないのではないか。

デモへ行くわけでもない。ストライキをするわけでもない。労働組合を通じて大規模な賃上げ圧力をかけるでもなく、多くの場合は節約して自分の家計の中で問題を処理しようとする。

不満の出口を比べると、日本社会の特徴が見えてくる。

  • 値上げされれば、安い商品へ替える
  • 給料が低ければ、副業や転職を考える
  • 政府に不満があれば、SNSで批判する
  • 政治そのものに失望すれば、政治から距離を置く
  • 集団で圧力をかけるより、自分で適応しようとする

これはある意味では社会の安定性であり、日本の長所でもある。

しかし別の見方をすれば、政治や企業に問題の解決を迫るより、自分が我慢して帳尻を合わせる社会である。

ここが辛口に言えば、日本の弱さではないか。

暴動が起きないことまで批判する必要はない。商店を破壊し、車を燃やし、略奪する社会より、秩序が保たれている社会の方が当然よい。

だが、暴動をしないことと、何もしないことはまったく別である。

「抗議しない社会」は本当に成熟した社会なのか?

暴力を使わず社会秩序を守ることは成熟だが、デモやストライキまで避けて不満を個人で抱え込む状態を民主主義の成熟と呼ぶことはできない。

日本ではデモというだけで、どこか特殊な政治思想を持った人々の行動だと警戒される傾向がある。「会社に知られたら困る」「周囲から変な人と思われる」と考え、政治的な意思表示そのものを避ける人もいる。

しかし民主主義とは、数年に一度投票して終わる制度ではない。

選挙、言論、集会、デモ、請願、労働運動などを通じて、政府や企業に継続的に要求することも民主主義の一部である。暴力は必要ないが、圧力まで放棄する必要もない。

日本人は物価高に怒っている。それ自体は統計からも分かる。

それなのに「生活が苦しい」「税金が高い」「社会保険料が重い」「給料が増えない」と言いながら、政治的にはほとんど何もしないのであれば、政府や企業の側から見れば非常に扱いやすい国民になる。

黙っていても政策は変わらない。

「誰かが何とかしてくれるだろう」と待っているだけでは、結局、その誰かも動かない。

1918年には米価に怒った人々が立ち上がった。1960年には政治に関心の薄かった市民まで街頭へ加わった。

それを考えれば、日本人には行動する能力がないのではない。

行動しなくても何とかなる社会が長く続いたため、行動する方法を忘れてしまったのである。

まとめ

日本で物価高への大規模抗議が起こりにくい理由は、国民性だけではなく、比較的緩やかだったインフレと、戦後に弱まった街頭政治・労働運動・集団行動の文化が重なった結果と考えるべきである。

欧州、とりわけフランスと日本では、物価上昇の規模も政治文化も違う。2022年のユーロ圏は二桁インフレを経験しており、日本とは生活費上昇の衝撃そのものが違った。現在もフランスやイタリアではエネルギー価格などを背景に日本より高いインフレが続いている。

しかし、それだけではない。

フランスでは政府に不満があればデモやストライキで圧力をかける。日本では不満があれば節約し、SNSで愚痴を言い、次の日には会社へ行く。

どちらが文明的かという単純な話ではない。暴動や略奪を肯定する理由はないし、日本の治安と社会秩序は守る価値がある。

ただし、秩序を守ることと従順であることを混同してはいけない。

物価が高い。給料が増えない。政治がおかしい。それほど不満があるのなら、選挙だけでなく合法的なデモ、請願、労働運動など、民主主義には意思を示す方法がいくらでもある。

それすらせず、「政府は何をしている」とテレビの前で怒るだけなら、政治が変わらないのも当然だろう。

かつて米騒動を起こした日本人と、現在の日本人は同じ民族である。

変わったのは国民のDNAではない。

不満を社会へぶつけるより、自分の中で処理することに慣れ切ってしまった日本社会そのものなのである。

主な参考資料

  • 総務省統計局「消費者物価指数(CPI)」2023年1月・2026年8月。2023年1月の総合指数は前年同月比4.3%上昇、2026年8月は1.9%上昇。
  • Eurostat「Annual inflation up to 10.6% in the euro area」2022年11月公表。2022年10月のユーロ圏年率10.6%、EU11.5%。European Commission
  • INSEE「Consumer price index – final results – September 2026」。フランスの2026年9月CPIは前年同月比3.1%、エネルギーは21.3%上昇。インsee
  • ISTAT「Consumer prices – September 2026」。イタリアの2026年9月CPIは前年同月比4.2%上昇。イタリア統計局
  • 内閣府「社会意識に関する世論調査(令和7年10月調査)」。「悪い方向に向かっている分野」で物価73.0%
  • 国立国会図書館「Rice Riots(米騒動)」。1918年の米価高騰から全国へ騒動が拡大した経緯。
  • 桐谷詩絵音「集合現象としてのデモへの参加過程―1960年安保反対デモにおける都市空間の身体的経験」『社会学評論』75巻1号、2024年