北川進氏、ノーベル化学賞受賞。分子を“設計する”時代へ

2025年10月7日、ノーベル委員会は、京都大学の北川進(きたがわ・すすむ)特別教授を含む3名にノーベル化学賞を授与すると発表した。
受賞理由は「金属有機構造体(MOF:Metal–Organic Frameworks)の開発」。

金属と有機分子を組み合わせ、空間を自在に設計できるこの新素材は、気体の吸着、分離、触媒反応、さらには環境浄化やエネルギー貯蔵など幅広い分野で応用が期待されている。

MOFとは何か──“金属と分子で作る空間の箱”

金属有機構造体(MOF)という言葉は、一般にはまだ馴染みが薄い。
しかしその発想はシンプルだ。

金属イオンを“結節点”、有機分子を“橋”としてつなぐことで、網目のような三次元構造を作り出す。
その内部には規則的な“空間(細孔)”が生まれる。
つまり、分子のレベルで設計されたスポンジのようなものだ。

この構造を利用すれば、分子を選んで吸着したり、特定の化学反応を起こしたりできる。
たとえば、空気中の二酸化炭素だけを選択的に取り込んだり、水蒸気から水を取り出すといった応用が可能になる。
北川氏らの研究は、化学の世界に「空間を設計する」という新しい概念をもたらした。

従来の化学とは何が違うのか?

化学の伝統的な目標は、分子そのものを合成することだった。
しかしMOFは、分子を組み合わせて“構造”を設計するという、次の段階の化学を切り拓いた。

この分野の先駆けとなったのが、1990年代後半の北川氏による一連の研究である。
当時は「そんな巨大な結晶構造は安定しない」と懐疑的な見方も多かった。
だが北川氏は、金属イオンの性質を精密に制御することで、安定かつ多孔性の結晶を作り出すことに成功。
その後、世界中でMOF研究が爆発的に広がった。

今日では、MOFの関連論文は年間1万件を超え、世界中の研究所や企業が新しい材料開発に競い合っている。

応用の広がり──環境から医療まで

MOFの応用範囲は広い。とくに注目されているのが次の3領域だ。

1. 環境・エネルギー分野

MOFはCO₂(温室効果ガス)の選択吸着材として期待されている。
排ガス中からCO₂だけを捕捉し、再利用や固定化を行う技術は、脱炭素社会の鍵になる。
また、湿度の高い空気から水分を取り出す“水回収装置”としての利用も研究が進む。
サハラ砂漠での実験では、夜の空気から飲料水レベルの水を生成する試みも行われている。

2. 医療・製薬分野

薬の分子をMOFの内部空間に収納し、体内で少しずつ放出させる「ドラッグデリバリー」への応用。
体への負担を減らし、副作用を抑える新しい治療法の可能性を開く。

3. 化学産業・触媒分野

触媒反応の場としてMOFを利用すれば、反応効率の向上や廃棄物削減が期待できる。
既存の化学プラントをより環境にやさしい形に変えていく「グリーンケミストリー」の一翼を担う存在でもある。

「見えない空間」を操る──化学の新たな哲学

北川氏の研究が評価された最大の理由は、「分子を作る」から「分子で作る」へと化学の考え方を変えた点にある。
MOFは目に見えないレベルでの“空間設計”であり、従来の化学反応を構造設計に拡張する発想だ。

ノーベル委員会は発表文でこう述べた。

「彼らは、金属イオンと有機分子を結び、分子の空間を自在にデザインする道を開いた。
それは、分子を“建築素材”として扱う新しい科学である。」

これは、化学を単なる物質合成から、機能設計の科学へと進化させたという意味で、革命的といえる。

京都大学という土壌

北川氏は1949年生まれ。京都大学理学部を卒業後、同大学院で博士号を取得。
長年にわたり同大学で研究を続け、現在は京都大学特別教授として後進を指導する。

京都大学は、過去にも野依良治氏(2001年化学賞)、本庶佑氏(2018年医学賞)など、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。
その背景には、研究者の自主性を尊重する“放任主義”に近い文化がある。
北川氏もインタビューで「大学は挑戦の場であり、自由な発想を許してくれた」と語っている。

基礎研究に長く時間をかけることを許す環境――。
それが、日本の科学界が世界と肩を並べる理由の一つだ。

日本の化学力は今も健在

日本人のノーベル化学賞受賞は、2019年の吉野彰氏(リチウムイオン電池)以来6年ぶり。
北川氏の受賞で、化学分野における日本の存在感が改めて浮かび上がった。

過去には、福井謙一(1981年)、野依良治(2001年)、鈴木章・根岸英一(2010年)、吉野彰(2019年)らが世界を代表する成果を挙げている。
こうした一連の研究は、物理や医学と比べて「応用に近い基礎科学」として、産業にも直結しやすい。

北川氏のMOF研究も、化学産業の未来を支える“静かな革命”として評価されている。

継続が生む発見

ノーベル賞は決して偶然ではない。
北川氏のMOF研究も、30年以上にわたる地道な基礎研究の積み重ねによって実を結んだ。

坂口志文氏(医学賞)といい、北川氏(化学賞)といい、2025年の日本人受賞者はともに「長期的な基礎研究」の成果として選ばれている。
すぐに成果を求めない文化――それが、日本科学の底力である。

分子で未来を描く

MOFの発見は、化学の世界を「構造の科学」から「空間の科学」へと広げた。
その根底には、物質の中に潜む秩序と可能性を見抜く日本的な視点がある。

金属と有機分子が織りなす微細な世界。
そこに未来の環境技術、医療、エネルギーの答えが眠っている。

ノーベル化学賞2025――その光は、分子の奥に広がる“空間の芸術”を見つめる私たちの眼差しを、もう一段深く照らしている。