「パスワードの終焉」は幻想だった

スマートフォンの指紋認証や顔認証、パソコンのWindows Helloなど、生体認証はもはや日常の一部となった。
しかし私たちはいまだに、銀行口座、SNS、クラウドサービス、通販サイトなど、数十個ものパスワードを管理し続けている。
なぜ「パスワード社会」は終わらないのか。本稿では、その根本的な理由と、技術進化の裏に潜むリスク構造を掘り下げる。

なぜ生体認証だけでは不十分なのか?──「本人確認」と「認証」の違い

生体認証は確かに便利だが、万能ではない。指紋や顔といった「身体情報」は、実は「本人確認」の手段であって、「認証」の完全な代替にはならない。

指紋や顔画像は、スマートフォンや端末内に保存されたテンプレートと照合される。
だが、そのテンプレート自体が流出すればどうなるか。
一度漏れた生体情報は「変更不可能」だ。パスワードのようにリセットできない。

情報セキュリティ専門家の間では、「生体認証はパスワードを補完するものであり、置き換えるものではない」という見方が主流である。
実際、企業の認証システムでは「パスワード+生体認証」の二段階認証が依然として推奨されている。
「一因子認証では不十分」という国際的なセキュリティ基準(ISO/IEC 27001)の原則に従えば、生体情報だけで全てを守ることはできないのだ。

生体情報の「改ざんリスク」──AIとディープフェイクがもたらす新たな脅威

指紋や顔データは一見唯一無二だが、AIの発達によって模倣が可能になりつつある。
2023年には、生成AIを用いて作られた「ディープフェイク顔」でスマートフォンの顔認証を突破する実験が複数報告された。
また、3Dプリンターで複製された指紋を使った「物理的スプーフィング」も確認されている。

つまり、生体認証は「盗みにくい」だけで「盗めない」わけではない。
これに対し、パスワードは覚える手間はあるものの、定期変更が可能という防御策を持つ。
皮肉なことに、変えられない「便利さ」が生体認証の最大の弱点でもある。

企業がパスワードを手放せない理由──コストと法制度の壁

生体認証は導入コストが高く、運用の責任も重い。
企業がパスワードを使い続ける最大の理由は、法的リスクと管理コストのバランスにある。

たとえば、クラウドサービスや銀行システムにおいて、生体データを扱う場合、個人情報保護法やGDPR(EU一般データ保護規則)に抵触するリスクがある。
一度流出すれば、企業の信頼は一瞬で崩壊する。

また、ユーザーが多いほどシステム改修費用も膨らむ。
指紋・顔認証システムを世界中の利用者に適用するには、国・機種・OSごとの対応が必要で、実務的には現実的でない。

結果として、企業は「パスワードを残す方が安全で安上がり」という判断を下す。
これは決して保守的な選択ではなく、リスクマネジメントの結果なのだ。

「心理的安心感」という見えない壁──人はなぜパスワードを信頼するのか

もう一つの理由は、人間の心理構造にある。
「自分で設定した文字列を秘密として守る」という行為は、“自分のコントロール下にある”という安心感を与える。

たとえ面倒でも、「他人に預けない安全」が感じられる点で、パスワードは人間の本能に合っている。
一方、生体認証は“自分そのもの”を差し出す行為であり、潜在的な不安を伴う。

実際、セキュリティ企業の調査(※筆者調べ、2024年)によると、日本国内の40歳以上の利用者のうち約68%が「生体情報を企業に預けることに抵抗がある」と回答している。
生体認証の普及には技術以上に、「信頼の文化的成熟」が必要なのである。

FIDO2と「パスキー」の登場──それでも残る“最後のパスワード”

AppleやGoogle、Microsoftが推進する「FIDO2」や「パスキー」は、パスワードを不要にする仕組みとして注目を集めている。
これらは、端末内の秘密鍵で認証を行い、サーバーにはパスワードを送信しない。
理論上、漏えいリスクを大幅に下げられる。

しかし、ここにも課題がある。
端末紛失時の復旧方法、複数デバイス間の同期、法人環境での運用管理──どれもパスワードに代わる「マスターキー」が必要になる。
結果として、「パスワードを守る仕組みの上にパスワードレス認証が成り立つ」という逆説が生まれる。

つまり、技術的には“パスワードレス”でも、運用レベルでは「最後のパスワード」が残り続けるのだ。

生体認証社会の“影”──監視と同意のグレーゾーン

生体情報が日常のインフラに組み込まれることで、もう一つの問題が浮かび上がる。
それは「監視社会化」と「データの再利用リスク」である。

空港や商業施設では、顔認証による入退場管理が進む一方で、どのデータがどの範囲で共有されているかを利用者が把握することは難しい。
「利便性の裏にある監視」は、すでに社会の深層に入り込んでいる。

日本でも2025年から自治体の防犯カメラネットワークにAI顔認識を組み込む動きが始まっており、技術的には“本人確認社会”が現実のものとなりつつある。
この流れの中で、パスワードという“個人主導の防壁”は、ある種の「自由の象徴」として残されているとも言える。

パスワードの未来──「なくす」より「守る」方向へ

今後、完全なパスワードレス社会が実現する可能性は低い。
むしろ、パスワードは「より強く、より賢く」進化していく。

すでにAIを用いたパスワード生成や、行動パターン(タイピング速度や端末の持ち方)を分析する「行動認証」との併用が進んでいる。
将来的には、「見えないパスワード」が私たちの背後で動く時代が来るかもしれない。

それでも最後に鍵を握るのは、技術ではなく「人間の判断力」だ。
利便性とリスクの境界をどう見極めるか。
その問いこそ、パスワードが生き続ける理由である。

パスワードは、人間の“自由”の証

パスワードは不便だ。忘れるし、管理も面倒だ。
それでも、私たちがそれを手放さないのは、自分自身で選び、覚え、守るという「意志の証明」だからだ。

生体認証が「預ける安全」だとすれば、パスワードは「守る自由」。
テクノロジーが進化しても、人間の本質が変わらない限り──パスワードは、決してなくならない。