経済界を揺るがせた一報
9月、福岡県警が経済同友会代表幹事であり、サントリーホールディングス会長の新浪剛史氏の自宅を家宅捜索したというニュースが報じられた。
違法薬物の疑い──その一報は瞬く間に経済界を駆け巡り、同友会代表幹事辞任という異例の事態へと発展した。
しかし、それから1か月。
新浪氏は逮捕も起訴もされていない。
違法成分を所持した証拠も、使用の痕跡も確認されず、事件は静まり返ったままだ。
この沈黙は、単なる「捜査中」ではなく、警察の勇み足を示す兆候ではないか――そう見る向きが広がっている。
「認識」の立証という壁
麻薬取締法違反を立件するには、「違法物を知って」「所持または使用した」という故意の立証が不可欠である。
だが、今回の捜査ではその前提が根底から崩れていた。
報道によれば、福岡県警が捜索した自宅から違法物は発見されず、尿検査も陰性。
米国から送られたサプリメントに微量のTHC(テトラヒドロカンナビノール)が混入していた可能性はあるが、
本人は「CBD製品(合法成分)」と認識していたと説明している。
この“認識”の有無こそが立件の最大の壁であり、法務省・検察庁の判断基準に照らしても、
故意を立証できなければ起訴は極めて困難だ。
実際、過去に報じられたCBD製品の誤認輸入事件では、いずれも起訴に至らないケースが目立つ。
捜査情報リークの罪
今回の事件では、家宅捜索の直後に報道が一斉に流れた。
このタイミングこそ、最大の問題点である。
刑事訴訟法218条は、家宅捜索令状の発付には「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由」を求めている。
だが、成分鑑定も終わっていない段階で、全国的な経済団体の代表幹事宅を強制捜索するのは、
その“相当な理由”が極めて脆弱だった可能性を示す。
さらに深刻なのは、捜査情報が報道機関に先行して漏れたことだ。
守秘義務に反する情報提供が行われたとすれば、国家公務員法違反にあたるおそれがある。
過熱報道が社会的制裁を先行させ、司法手続きの前に「有罪イメージ」を定着させてしまう構図。
この「報道と捜査の癒着」が再び問われている。
司法のバランス感覚
検察は「起訴便宜主義(刑訴法248条)」のもと、
有罪立証の見込みがない案件を起訴しないという立場を取っている。
特に著名人や経済人に対しては、社会的影響を踏まえ、証拠の確実性と法的相当性を厳しく審査する。
この原則から見れば、今回の捜査は「見込み違い」と言わざるを得ない。
CBD製品を巡る違法成分混入のケースでは、製造過程で微量のTHCが含まれることもあり、
厚生労働省自身が「消費者の故意を問えないグレーゾーン」としている。
それにもかかわらず、警察が強制捜査に踏み切った背景には、
世論や“話題性”を意識した判断があったのではないかとの指摘もある。
経済界が失ったもの
新浪氏の辞任によって、経済同友会は代表幹事不在という異例の空白を生じた。
経済界の象徴的存在を事実上失脚させた結果、政財界の信頼構造にも深い傷を残した。
もしこの件が不起訴に終われば、
国家的な経済団体のトップを強制捜索で追い詰めた責任は、警察側に跳ね返る。
それは単なる「一捜査の失敗」ではなく、
日本の経済的信用や、司法制度への信頼をも揺るがす問題である。
問われる「説明責任」
今、問われているのは新浪氏の罪ではなく、
警察と報道機関の“手法”そのものである。
違法物の所持も使用も確認できず、
立件の見込みもないまま、社会的制裁だけが先行する。
これが「勇み足」でなければ何なのか。
もし不起訴が確定すれば、警察は何をもって「相当な理由」があったと説明するのか。
その検証なしに、権力行使の正当性は立証されない。
一人の経営者の名誉が損なわれたこと以上に、
法治国家としての信頼を守るための説明責任が、いま警察に突きつけられている。