失われた30年を経ても、誰も責任を取らず、誰も覚悟を語らない。
日本は「最貧先進国」と呼ばれてもなお、
政治家は言葉を濁し、官僚は制度に逃げ、企業は“ハラスメント”と“時短”で自らを縛り、
国民は平和ボケのぬるま湯に浸かっている。
高市早苗首相の所信表明は、この国全体に向けた静かな怒号であった。
政治家への喝──“検討する政治”の終焉
「検討」「整理」「調整」。この三語で30年を浪費したのが戦後日本の政治だった。
高市首相はそれを終わらせ、「実施」「前倒し」「検証」という行政動詞を多用した。
政治家が“結果責任”を負う政治を取り戻さない限り、どんな改革も形骸化する。
この演説は、口先ではなく実行力で信頼を取り戻せという政治家への最後通告でもある。
官僚への喝──特別会計と天下りの温床
霞が関の最大の病は、改革を唱えながら自らの温床を温存してきたことだ。
特別会計によって巨額の資金を温め、外郭団体や財団法人を天下り先として循環させる。
制度改革の名の下に、自分たちの居場所を確保する構造。
高市政権が“検証”“前倒し”を繰り返し強調したのは、
この「動かない官僚国家」を政治主導で壊すという決意表明にほかならない。
企業への喝──“何とかハラ”と時短の病
企業社会もまた、自らを縛るルールで衰退してきた。
「ハラスメント」「コンプライアンス」「時短」。
本来は健全な職場環境をつくるための制度が、
いまや“考えないための口実”になっている。
労働時間を減らすこと自体が目的化し、成果も責任も曖昧になった。
それは**「働かない自由」だけが拡大し、生産性が失われる社会**を生んでいる。
高市首相が演説で繰り返した「覚悟」「責任」という言葉は、
この「逃げの文化」に真正面から突き刺さった。
国民への喝──最貧先進国の現実を見よ
観光客が押し寄せるのは、日本が魅力的だからではなく、安いからである。
今やアジア・アフリカの富裕層が「物価の安い先進国」として日本を訪れる。
それを“成功”と錯覚している国民こそ、真の平和ボケだ。
物価の安さは誇りではなく、衰退の証明である。
かつて世界を追いかけた日本は、いまや“安く買われる国”に転じている。
その事実に気づかない限り、どんな改革も虚ろな希望で終わる。
大企業サラリーマンへの喝──責任の消失
大企業では「誰が決めたのかわからない会議」と「誰も責任を取らない決裁」が日常化している。
終身雇用の残滓が意思決定を鈍らせ、
“上の指示を待つ”文化が若手の意欲を奪う。
安定の名の下にリスクを避け、
革新よりも保身を選んだ結果、日本企業の競争力は急速に失われた。
これはもはや経営ではなく制度疲労そのものである。
平和ボケ社会への最後通告
「失敗を恐れ、責任を避け、他人を批判する」。
それが今の日本の平均的な姿だ。
だが高市首相は、「責任」「覚悟」「再設計」という言葉を繰り返した。
それは“優しさの仮面を被った怠惰”を断ち切る決意表明である。
国民も官僚も企業も、権利の拡大を求めながら、
その裏で努力と緊張を失っていった。
所信表明は、それらすべてに対する冷たい目覚まし時計だった。
喝とは希望の第一声
喝は怒りではなく、再生への呼びかけだ。
高市首相の演説は、戦後最大の“再教育”である。
政治も官僚も企業も国民も、他人を責める前にまず自分を動かせ。
「責任を取らない国」が、ようやく“責任を取り戻す”ための出発点に立った。
それが、今回の所信表明が持つ歴史的意義である。
