1. 冒頭事例:都市近郊に残る「土地」と家族の記憶
神奈川県の都市近郊に、江戸時代から土地を受け継いできた農家がある。父親は地元の大手メーカーに勤めながら、毎年の固定資産税の支払いに苦労し、それでも畑の草を刈り、水路を清掃し、季節ごとの作付けを続けてきた。だが子世代は外で働き、農業から離れていく。宅地需要が高い地域では、農地を維持すること自体が「家計の負担」になりやすく、やむなく転用・売却に踏み切る家が増える。こうした選択の累積は、一軒の家の事情にとどまらず、日本の食料安全保障の足場を静かに削っている。
2. 都市近郊農地を追い詰める「税・管理・収益」の三重苦
都市計画区域内では、農地を農地として維持していれば宅地並み課税を避けられるが、それでも収入が乏しければ負担感は大きい。相続局面では都市部の地価が跳ね返り、現金納税のための一部売却が現実解になりやすい。さらに、雑草管理や用排水の共同管理、農地法上の利用要件など、見えにくい維持コストが積み重なる。規模の小さい都市近郊農地は機械化のメリットが出にくく、出荷の収益性は低い。結果として「維持のために耕す」状態となり、外部就労と両立させるほど時間的・心理的負担は増す。
この構図は統計の上でも裏づけられる。農業経営体数は減少基調で、2023年には前年比4.7%減の92.9万経営体となった。経営主体の縮小は地域の耕作継続力を弱め、耕地の保全を難しくする。
3. 神奈川県の足元で何が起きているか
神奈川県は全国平均と比べて一戸当たりの耕地規模が小さい上、都市化圧力が強い。県の資料を見ると、2015年度に1万9,600haあった農地は、2020年度には1万8,400haへと1,200ha減少した。地目別でも水田・畑・樹園地のいずれも減少が確認される。都市住民と市場が近い強みはあるが、面積の目減りが続けば、地域の生産力や多面的機能の発揮は難しくなる。
県の「農業の概要」でも、農家数や耕地面積の推移が継続的に整理されており、都市近郊型農業の活力を支える前提条件が漸減している実態がうかがえる。
4. 「生産緑地2022年問題」と制度対応
市街化区域内の農地を計画的に保全する生産緑地制度は、固定資産税の軽減や相続税の納税猶予などの優遇により、農地を維持する重要な柱だ。2017年の法改正により、条例で面積要件を500㎡から300㎡へ引き下げることも可能になり、直売所や加工施設の設置など営農継続を後押しする措置も整えられた。
一方で、1992年指定分の多くが指定30年満了を迎えた「2022年問題」では、買取申出が可能になることで都市計画上不安定化する懸念があったため、国交省は「特定生産緑地」の仕組みを整え、指定の更新・安定化を図った。制度手引きは自治体実務に向けたもので、申出基準日到来に伴う不安定化を抑える趣旨が明確に示されている。
都市内農地の規模感として、国交省資料等を引用した整理では、市街化区域内農地約7.4万haのうち、生産緑地が約1.3万ha。全国農地面積の約2%にすぎないが、農産物販売額の約1割を占めるとの指摘もある。都市住民に近い供給拠点であることが、量以上の価値を生んできた。
5. 全国的な地盤沈下:耕地面積と作付の縮小
全国でみれば、2022年の農地面積は433万haと前年比2.4万ha減。耕地の利用率も下がり、作付面積の縮小傾向が続いている。面としての生産基盤が痩せれば、単収の上下や天候不順に対するクッションが薄くなる。
6. 食料安全保障の現在地:自給力の脆さ
日本の食料自給率(カロリーベース)は、直近公表の2023年度でも38%で横ばい推移が続く。目標は2030年に45%だが、達成には国内生産力の底上げが前提となる。
他方、主要穀物の輸入依存は高い。トウモロコシ・大豆・小麦の80〜90%を輸入に依存し、小麦は米国・カナダ・豪州の3カ国で99.8%を占めるなど、供給国の偏在も顕著だ。価格や輸送のショックが重なると、国内価格と在庫に直撃する。
7. 国際ショックと価格:何が家計を直撃するのか
ロシア・ウクライナ戦争や輸出規制、円安は、輸入小麦や油糧種子の調達コストを押し上げた。日本は世界でも有数の農産物輸入国であり、特に小麦や大豆の高い輸入依存が脆弱性を増幅する。輸入先の地政学リスクが現実化すれば、価格上昇と不足は同時に起こり得る。
実際、近年の需給変動では国内米価格や在庫にも波及が見られ、足元の輸入・在庫調整の難しさが示された。個別年次の数値は上下するが、底流としての「国内生産基盤の薄さ」は変わらない。
8. 災害時の最後の砦としての「都市近郊農地」
大地震や風水害で物流が寸断されれば、近傍で採れる食材の意義は跳ね上がる。都市近郊農地は、平時には地産地消・直売で都市生活を支え、非常時には迅速な供給拠点になる。だからこそ、わずかでも「都市の中の農地」を残す政策的意義は大きい。農水省年次報告でも、輸入先偏在の現状を直視しつつ、国内生産の増強と輸入の安定・多角化を両輪で進める必要性が繰り返し指摘されている。
9. 「売る一択」にしないための選択肢
では、神奈川県のような都市近郊で、どうすれば「売る一択」を緩和できるのか。制度の範囲で現実的な選択肢は次の通りである。
- 生産緑地の活用と更新
税制優遇と納税猶予の仕組みを最大限活かし、指定更新や特定生産緑地の活用で不安定化を避ける。直売所・加工施設の導入余地を検討する。 - 貸借の活用と担い手マッチング
制度改正により都市農地の貸借が進めやすくなっている。外部の担い手に託し、地縁・時間制約の壁を越えて耕作をつなぐ。 - 市民参加型の運営
体験農園や学校・福祉と連携したモデルは、営農継続と地域の理解を同時に高める。都市公園・教育分野との横断も制度的に位置づけが進む。
10. 神奈川県の実務的ポイント
神奈川は圧力と可能性が同居する。横浜市の整理資料でも、市街化の影響を受けつつ、都市内に広がる農地の多面的機能を位置づけている。県内の耕地は水田2割・畑6割・樹園地2割と畑地比率が高く、直売・園芸・花きといった都市近郊適性の高い作目で力を発揮してきた。だが2015〜2020年のわずか5年で1,200haの減少が示すように、数量的な後退は着実に進む。自治体、農業委員会、JA、地権者が連携し、制度・税制・販路の三位一体で「維持可能性」を設計する必要がある。
11. 結び──食料安全保障は「遠い話」ではない
神奈川県のある家の話は、固定資産税に悩みながらも農地を守ってきた生活の記録であり、同時に日本の食料安全保障の鏡でもある。全国の農地面積は縮小し、都市内の農地はわずかながらも確かな比重で都市の食と環境を支えてきた。国内生産の比率が上がらない一方で、主要穀物は少数国への高依存が続き、外的ショックに弱い構造が温存されている。
「農地は単なる不動産ではなく、国民の食卓を守るインフラである」。この前提に立つとき、都市近郊で農地をどう守るかは、個別の家の損得を超えた公共的な問いになる。政策の裾野を広げ、民間の工夫を束ね、制度を使い切る。売却だけが唯一解にならない環境を整えることが、神奈川から始められる現実的な食料安保の第一歩だろう。
主要出典
- 自給率・輸入依存・輸入先偏在:農水省『Annual Report on Food, Agriculture and Rural Areas FY2023』(主要穀物の輸入構造、3カ国偏在)および報道(2023年度カロリーベース38%)。 農林水産省The Japan Times
- 農業経営体数:農水省 年次報告書(2023年・経営体数の推移)。 農林水産省
- 全国の農地面積:農水省 年次報告(2022年・433万ha、前年比2.4万ha減)。 農林水産省
- 神奈川県の農地減少:神奈川県「農地面積の減少に係る考察」(2015→2020で1,200ha減)。 神奈川県公式サイト
- 生産緑地制度と2022年問題:国土交通省 資料(制度概要・特定生産緑地・面積要件の緩和等)。 国土交通省+2国土交通省+2
- 都市内農地の規模感と機能:LBA資料(国交省データ引用、7.4万ha中1.3万haが生産緑地、販売額比率の指摘)。 lba-j.org
- 国際ショックの影響・輸入穀物の動向:アジア・パシフィック財団レビュー、FASレポート等。asiapacific.caUSDA Apps+