――制度を作った者たちは、なぜ責任を問われないのか
なぜ冤罪が起きても公務員は不起訴になるのか
冤罪事件が明らかになるたび、同じ疑問が繰り返される。
なぜ、人生を破壊するような捜査が違法と認定されても、捜査を担った公務員は不起訴になるのか。
大川原化工機事件では、警視庁公安部による捜査と起訴が違法だったと司法が明確に判断し、国に対して多額の国家賠償が命じられた。それにもかかわらず、捜査を行った警察官らは「故意を立証できない」として不起訴処分となり、捜査は終結した。
この結論に違和感を覚えた人は多いだろう。しかしこの問題は、特定の捜査員の資質や倫理だけで説明できるものではない。問いの矢印は、制度そのものに向けられるべきである。
制度は誰が作り、誰が守ってきたのか
刑事責任の仕組みは自然に存在しているわけではない。
法律は国会で制定され、官僚が条文を起草し、司法と行政が運用してきた結果として現在の形がある。
つまり「公務員はなぜ不起訴になるのか」という問いは、「誰が、そうなる制度を作り、維持してきたのか」という問いと不可分である。
捜査機関の行為が刑事責任を問われる場合、多くは虚偽公文書作成罪や証拠隠滅罪といった、明確な故意を前提とする犯罪類型が適用される。過失による捜査権の誤用を直接処罰する規定は、事実上ほとんど存在しない。
これは偶然ではない。制度設計の段階で、意図的に外されてきた領域である。
民間なら成立する「業務上過失」がなぜ適用されないのか
民間企業であれば、重大な事実誤認や確認義務違反によって他人に深刻な損害を与えた場合、故意がなくても業務上過失として刑事・民事の責任が問われる。
専門性と権限を持つ立場であるほど、注意義務は重くなる。
これは社会の常識であり、法の建前でもある。
しかし捜査機関の公務員については、同じ論理が適用されない。理由は単純だ。捜査行為そのものが職務権限の行使として位置づけられ、過失を刑事責任に結びつける構成要件が用意されていないからである。
結果として、判断の誤りや検証不足があっても、「悪意があったかどうか」という一点に論点が集中し、故意の立証ができなければ不起訴になる。
なぜ「故意犯中心」の設計が選ばれたのか
捜査権は国家権力の中でも極めて強い。
逮捕は人の人生を止め、起訴は社会的信用を破壊する。
この権限の行使に過失責任まで課せば、捜査が萎縮し、判断が遅れ、治安が揺らぐ。そうした考え方が長年、制度設計の前提とされてきた。
その結果、「悪意がなければ処罰しない」「判断ミスは組織が引き受ける」という構造が選ばれた。国家賠償制度は、その出口として機能してきた。
だが、この合理性は誰のためのものだったのか。
国会議員もまた制度の当事者であるという現実
制度を作る国会議員や官僚も、将来捜査される側になり得る当事者である。政治資金、秘書、後援会、行政判断など、誰もが捜査権の射程圏内にいる。
だからこそ、捜査権は強く維持しつつ、その行使の失敗について個人責任を極力問わない制度が温存されてきた。これは陰謀ではなく、自己防衛としての制度設計にすぎない。
大川原化工機事件は、その構造が可視化された象徴的な事例である。
国家賠償は成立しても、個人責任は問われない理由
司法は、逮捕や起訴が違法だったことを認定した。しかし「誰が、どの判断で、どこを誤ったのか」という点について、刑事責任の形では踏み込まなかった。
その結果、賠償金は税金で支払われ、判断した個人は不起訴のまま残る。制度は守られ、人だけが切り離される。
この構図が繰り返される限り、再発防止は制度的に担保されない。
不起訴は無実ではないという事実
不起訴とは無実の証明ではない。
「立証できなかった」という事務的な結論にすぎない。
それでも制度は、不起訴という言葉で全てを終わらせる。説明責任も、立法による検証も、制度改正も行われない。その結果、国民の側には静かな不信だけが蓄積していく。
問われるべきは個人ではなく制度である
公務員がなぜ不起訴になるのか。
その答えは、捜査員個人の問題ではない。
そうなるように作られ、維持されてきた制度と、その制度を作った立法府と官僚機構の責任である。権限に見合う責任が制度的に設計されない限り、大川原化工機事件のような違和感は、形を変えて何度でも繰り返される。
国民が感じているのは怒りではない。
説明されないまま置き去りにされる感覚だ。
その感覚こそが、いま日本社会が向き合うべき最大の課題である。
