“増税国家ニッポン”を問う 第3回

なぜ「財務省解体論」が市民の口に上るのか?

近年、日本社会のあちこちで「財務省を解体すべきだ」という声が聞かれるようになった。これは単なるネット上の過激な叫びではない。SNSでは若者から高齢層までが、財務省の「増税路線」「財政難の刷り込み」に不満を漏らし、街頭デモでは「財務省は国民を苦しめる加害者だ」とするプラカードも見られる。
財務省解体論は一見、極論に見える。だが背景には、日本の長年の財政運営の硬直性と、国民が感じる不信感が積み重なっている。果たしてこれは暴論なのか、それとも正当な怒りの表現なのか。本稿ではその構造を分析していく。

財務省は本当に「増税国家ニッポン」の中心か?

財務省は、国の予算編成と税制設計を一手に握っている。特に「プライマリーバランス黒字化」という目標を掲げ、増税と歳出削減を繰り返してきた。しかし、2024年度の国税収は過去最高を記録したにもかかわらず、「財政は厳しい」というメッセージは変わらない。
一方で、公共事業の削減や社会保障費の抑制など、国民生活に直結する分野では「支出は増やせない」と説明される。この硬直的な発想こそが、国民から「財務省が日本の活力を奪っている」という批判を招いている。

「財務省解体デモ」はどんな人々が支えているのか?

2025年に入り、東京や大阪などの都市圏では「財務省解体」を訴える市民集会やデモが開かれた。参加者の多くは、特定の政党支持者ではなく「生活が苦しい」と感じる普通の人々だ。物価上昇、増税、年金不安。これらが日常の会話で語られるようになり、怒りの矛先が財務省へ向かっているのである。
SNS分析ツールを用いると、「財務省」「解体」「増税」というキーワードは2023年比で4倍以上増加している。特にX(旧Twitter)では「#財務省解体」「#増税国家」が拡散し、政治関心の低い層まで巻き込む現象となっている。

過去の予算編成の硬直性はどれほど深刻か?

歴代政権は「財務省との戦い」に苦しんできた。たとえば医療や教育に投資しようとしても、「財源はどうするのか」と財務省が立ちはだかる。公共投資や成長戦略の芽を摘む事例も少なくない。
一方、財務省側から見れば、無駄な支出を抑制し、国の信用を守るために厳格さは不可欠だという理屈がある。確かに放漫財政を防ぐ仕組みとして財務官僚の存在は一定の意味を持つ。しかし、その姿勢が「守り一辺倒」になりすぎ、日本が国際的な成長競争で後れを取ったという指摘は否めない。

解体論は「危険思想」か、それとも民主主義の健全な発露か?

財務省を解体するという発想は、行政組織に対する強烈な挑戦である。世界的に見ても、財政当局を廃止した国はほとんど存在しない。したがって、現実的な政策案としては荒唐無稽に映る。
しかし、市民が「解体」を叫ぶのは、他に有効な表現手段を持たないからではないか。選挙を通じて声を届けても、最終的には財務省が増税の方向に持っていく。議論が封じられていると感じる国民が、最終的に「解体」という過激な言葉で抵抗を示しているのだ。これは民主主義の健全な圧力ともいえる。

「改革」と「解体」の違いはどこにあるのか?

財務省解体論の核心は、「組織そのものをなくすべき」という意味と、「今のままでは国益を損なうから徹底改革が必要だ」という意味が混在している点だ。
政治的現実を考えれば、財務省を一夜にして廃止することは不可能だろう。だが、予算編成権を国会により強く取り戻すこと、独立機関による財政監視を強化することなど、「解体に準じる改革」は可能だ。つまり、「解体」という言葉は実際には「改革の強い要求」として理解すべきかもしれない。

国民の怒りはどこまで正当化されるのか?

増税と緊縮が続く中で、国民が「もう限界だ」と叫ぶことは自然だ。国税収が最高でも、庶民の生活は豊かにならない。政治が財務省の論理に縛られ、経済の活力を損なっているとすれば、国民の怒りは正当である。
ただし、その怒りを「解体」という言葉で表すと、政策論としての説得力を欠く危険もある。怒りをどう制度改革につなげるのか。ここに日本政治の成熟が試されている。

解体論は「過激」ではなく「シグナル」である

結局、財務省解体論は過激な幻想ではなく、国民の不満を凝縮したシグナルだと考えられる。過去最高の税収にもかかわらず「財政難」という物語を繰り返す財務省。これに国民が疑念を抱くのは当然だ。
したがって、求められるのは「財務省の存在意義」をゼロにすることではなく、その権限を透明化し、政治と国民が財政運営を主体的に担う仕組みをつくることだろう。解体論を単なる過激思想と片づけるのではなく、日本社会が財政民主主義をどう確立するかを問う声として受け止めるべきである。