なぜ「リベラル」という言葉が支持を失ったのか
かつて日本において「リベラル」は、知性や良識、弱者への配慮を象徴する言葉だった。しかし近年、この言葉は政治的影響力を失い、時に揶揄や拒絶の対象にすらなっている。選挙結果を見ても、リベラルを自認する政党や言論が社会の主流を形成しているとは言い難い。
本稿では、日本のリベラルがなぜ衰退したのかを、思想の是非ではなく政治文化の変質という観点から分析する。結論から言えば、最大の要因は「対話の喪失」にある。
日本のリベラルは本当に衰退したのか?
まず確認すべきは、「衰退」とは支持者数の減少だけを指すのかという点だ。世論調査を見ると、個別の政策論点では、福祉の充実、ジェンダー平等、表現の自由など、リベラル的価値観に賛同する国民は決して少なくない。
それにもかかわらず、リベラル勢力が政治的影響力を持てないのは、価値観の問題ではなく伝え方と関係構築の失敗にある。
なぜリベラルは「対話」ではなく「断罪」を選んだのか
近年の日本の政治言論、とりわけリベラル側の発信には共通点がある。それは「正しさ」を前提にしすぎている点だ。
意見の異なる相手を「理解が足りない」「時代遅れ」「無知」と位置づけ、説得ではなく断罪によって態度を変えさせようとする傾向が強まった。この構図はSNS時代に加速した。
本来、リベラルとは他者の自由や尊厳を尊重する思想である。しかし実際の言論空間では、「正しい側に立つ者」と「間違った側にいる者」という二項対立が先鋭化し、対話の余地が失われていった。
現場感覚を失ったリベラル言説の問題点
筆者が観察してきた範囲でも、都市部のメディア関係者や知識層が発するリベラル言説と、地方や中間層の生活実感との乖離は年々拡大している。
例えば、雇用不安や物価上昇に直面する人々にとって最優先の課題は「理念」ではなく「生活の安定」だ。しかしリベラル言説は、抽象度の高い正義論や制度批判に終始し、具体的な生活改善の道筋を示せていない。
このギャップが、「自分たちの話を聞いてくれない」という不信感を生み、結果として支持離れを招いている。
保守はなぜ「対話しているように見える」のか
対照的に、保守的言説は必ずしも内容が洗練されていなくとも、「不安」や「違和感」に寄り添う姿勢を示すことが多い。
重要なのは、ここでの「対話」が必ずしも実質的である必要はないという点だ。「あなたの不満は理解できる」「おかしいと感じるのは自然だ」というメッセージを発するだけで、人は「聞いてもらえた」と感じる。
リベラルが失ったのは、この感情レベルでの対話だった。
日本のリベラルはなぜ自己修正できなかったのか
もう一つの問題は、リベラル内部での自己批判や軌道修正が機能しなかった点にある。
異論を「分断を助長する」「敵を利する」として排除する空気が強まり、内部でも多様な意見交換が難しくなった。その結果、言説は内向きに純化し、外部との接点を失っていった。
これは政治思想の問題というより、文化としての硬直である。
リベラル再生に必要なのは「正しさ」ではない
では、日本のリベラルは今後どうすればよいのか。結論は明確だ。必要なのは、より正しくなることではない。
必要なのは、「間違っているかもしれない自分」を前提に、相手の話を聞く姿勢を取り戻すことだ。
対話とは、相手を変えるための手段ではない。相手を理解し、自分も変わり得ると認める態度そのものだ。この姿勢を失った瞬間、どんな思想も支持を失う。
衰退したのは思想ではなく「政治文化」である
日本のリベラルが衰退した最大の理由は、理念の誤りではない。対話を軽視し、断罪を優先する政治文化を選び続けたことにある。
もし再生を目指すのであれば、まず「語り方」を変える必要がある。正しさよりも関係性を重視し、結論よりも過程を共有する。その地道な積み重ねなしに、支持の回復はあり得ない。
