岩倉使節団には大きな歴史的意義があったが、当初の目的、日程、国内政治への影響まで含めれば、単純に「大成功」と評価できる事業ではない。
1871年、岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使とする使節団が欧米へ向かった。国立公文書館によれば、その目的は不平等条約改正のための予備交渉と、欧米各国の制度・文物の調査だった。
現在では、欧米の政治、産業、教育、軍事などを直接調査し、その後の近代国家建設に生かした点が高く評価されている。確かに、この成果自体を否定する必要はない。
ただし、評価する際には次の事実も同時に見る必要がある。
- 不平等条約の改正は実現しなかった
- 当初約10か月半だった予定が約1年10か月に延びた
- 明治政府の重要人物が長期間国内を離れた
- 留守政府との間で政策をめぐる対立が深まった
- 帰国直後、政府を二分する明治六年政変が起きた
これらを無視して「欧米を見て近代化を学んだ」という結果だけを取り出せば、岩倉使節団の実像はかなり違ったものに見えてしまう。
なぜ政府中枢が長期間日本を離れたことが問題なのか?
岩倉使節団が出発した1871年は廃藩置県が行われた年であり、新しい中央政府の統治体制はまだ固まっていなかった。
現在の政治制度と単純に比較することはできないが、岩倉具視は右大臣、木戸孝允と大久保利通は政府中枢に位置する有力者だった。新国家をつくっている最中に、その意思決定層の重要人物がそろって国外へ出ること自体、大きな政治的リスクを伴っていた。
政府自身も、その危険性を認識していたことが史料から分かる。使節団と留守政府との間では、「大臣参議及各省卿大輔約定書」と呼ばれる取り決めが交わされていた。
留守政府には「新しい改革を控える」よう求めていた
アジア歴史資料センターが紹介する約定書では、使節団と本国が情報交換を続けることに加え、新規の制度改革を使節団の帰国までなるべく行わないことなどが定められていた。
つまり政府首脳の一部が海外にいる間は、大きな政治判断を避けようとしたのである。一方で、廃藩置県後の行政統一など、国内統治に必要な施策については進めることも認められていた。
問題は、使節団が予定通り帰らなかったことである。国立公文書館によると、当初約10か月半とされた日程は、最終的に約1年10か月にまで延びた。
これほど帰国が遅れれば、「帰るまで大きな改革をするな」という前提そのものが現実と合わなくなる。国家の制度づくりが進行している時期に、国内政治を長期間停止させることはできなかったからだ。
条約改正では何を達成したのか?
不平等条約の改正という外交課題について見ると、岩倉使節団は目に見える成果を持ち帰ることができなかった。
出発時の目的の一つは、幕末に欧米諸国と結ばれた不平等条約の改正に向けた協議だった。国立公文書館は、岩倉使節団の目的を「不平等条約改正に関する交渉」と「欧米社会の見聞」に整理している。
ところが最初の訪問国アメリカで、大きな準備不足が明らかになった。
全権委任状を持たずに交渉へ進もうとした
当初は予備交渉の予定だったが、米国で日本側は実際の条約改正交渉に踏み込む方針へ変更した。しかし使節団には、条約を正式に交渉するための全権委任状がなかった。
そのため大久保利通と伊藤博文が一時帰国し、委任状を受け取って再び渡米することになった。国家を代表する外交使節団として見れば、少なくとも準備と権限設定が十分だったとは言いにくい。
しかも、委任状を取得した後もアメリカとの条約改正交渉は中止された。その後、使節団は欧米各国の視察を中心とする活動へ比重を移している。
条約改正そのものが実現するのは、岩倉使節団よりはるか後の時代である。したがって、「条約改正を目的に出発し、それを成功させた使節団」という理解は明確に誤っている。
岩倉使節団について外交面を評価するなら、次のように整理するのが妥当だろう。
- 各国政府との公式な接触には意味があった
- 日本の国際的立場を把握する機会になった
- 条約改正交渉そのものは成功しなかった
- 外交交渉の準備不足も露呈した
失敗から日本側が学んだことは大きかったと考えられる。しかし、「失敗から学んだ」ことと、「その計画自体が成功した」ことは同じではない。
欧米を実際に見たことは岩倉使節団だけの功績なのか?
欧米を直接見て日本との国力差を理解したことは重要だが、それを岩倉使節団特有の功績として語るのは歴史的に正確ではない。
岩倉使節団を評価する際、「政府首脳が自分の目で西洋文明を見たことに最大の意味があった」と説明されることがある。確かに大久保や木戸らが欧米社会を長期間観察したことは、その後の政治判断に影響しただろう。
しかし、日本人による欧米視察は岩倉使節団から始まったわけではない。
国立国会図書館によれば、幕府は1853年のペリー来航後、およそ10年間に6回の海外使節を派遣している。1860年の遣米使節には福沢諭吉らが同行し、1862年にはヨーロッパへの使節団も派遣された。
幕末から明治初期にかけては、次のようなルートですでに欧米情報が日本へ入っていた。
- 幕府による遣米・遣欧使節
- 幕臣による海外視察
- 薩摩藩や長州藩からの留学生
- 開港地を通じた外国人との交流
- 翻訳書や洋学を通じた制度・技術の研究
伊藤博文自身も岩倉使節団以前に英国へ渡った経験を持っている。つまり、日本は1871年になって突然西洋の存在を知ったわけではない。
明治政府による近代化も、使節団出発以前から始まっていた。廃藩置県をはじめ、新しい行政制度や産業基盤の整備はすでに進行しており、岩倉使節団だけを「日本近代化の出発点」とするのは歴史を単純化しすぎている。
岩倉使節団の価値は、「初めて西洋を知ったこと」よりも、政府の有力者が各国を体系的かつ長期間調査したことに求めるべきだろう。それでも、そのために政府中枢を長期間国外へ出す必要があったのかという問題は別に残る。
留守政府は本当に「約束を破った側」だったのか?
留守政府は約定を超える改革を進めたが、使節団の帰国が大幅に遅れた以上、国内政治を長期間止めることも現実的ではなかった。
使節団が国外にいる間、日本では三条実美、西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、井上馨、大木喬任らが国政を担った。いわゆる留守政府である。
アジア歴史資料センターによれば、この時期には学制、徴兵令、地租改正、司法制度、宗教政策など、後の日本社会を大きく左右する改革が進められた。
留守政府が何もしなければ国家建設そのものが止まる
使節団との約定では新規改革を控えることになっていたため、留守政府の施策が「約束違反」と評価されることはある。しかし、それだけでは一面的である。
当初予定から大幅に帰国が遅れている以上、国内側には現実の行政需要が積み上がっていく。廃藩置県直後の国家で、教育、徴兵、税制、司法などの整備を長期間延期することにも大きな問題があった。
ここでは、二つの事実を同時に見る必要がある。
- 留守政府は当初の約定を超える改革を進めた
- 使節団も当初予定を大幅に超えて国外に滞在した
したがって、帰国した側だけが留守政府を一方的に非難できる構図ではない。むしろ、使節団の長期化によって約定そのものが現実に耐えられなくなった、と考える方が自然である。
帰国後の明治六年政変は何を物語るのか?
岩倉使節団の帰国直後に起きた明治六年政変は、新政府が決して一枚岩ではなかったことを示している。
1873年9月に使節団が帰国すると、朝鮮への対応をめぐって西郷隆盛、板垣退助ら留守政府側と、岩倉具視、大久保利通らとの対立が表面化した。アジア歴史資料センターも、この政争が明治六年政変へ発展したと説明している。
結果として、西郷、板垣、副島種臣、江藤新平らは政府を去った。倒幕と維新を担った人々が、新政府発足から数年で大きく分裂したのである。
その後の経過も重い。国立国会図書館によれば、板垣は自由民権運動へ進み、江藤は佐賀の乱を経て処刑され、西郷は1877年の西南戦争で政府軍と戦い自刃した。
もちろん、西南戦争や士族反乱の原因を岩倉使節団だけに求めることはできない。秩禄処分、廃刀令、士族の経済的不満、地方政治など、複数の要因が重なっている。
それでも、
- 政府中枢の長期外遊
- 留守政府による独自の政策展開
- 帰国組との政策・権力対立
- 明治六年政変による政府分裂
という流れが存在したことは無視できない。
「明治の元勲たちが一致団結し、西洋を学びながら近代国家を完成させた」という整然とした物語より、実際の明治政府ははるかに不安定で、試行錯誤と対立の連続だったのである。
岩倉使節団はどう評価すべきなのか?
岩倉使節団の本質は「完璧な成功」でも「無意味な失敗」でもなく、明治新政府の行動力と未熟さを同時に象徴した国家事業にある。
『米欧回覧実記』をはじめとする膨大な記録が残され、各国の制度や産業、社会を政府関係者が体系的に調査したことは大きな成果だった。世界の現実を把握した経験が、その後の政策形成に影響したことも否定する必要はない。
一方で、当初目的と実際の結果を切り分けなければ評価を誤る。
短期的な実績と長期的な影響を分ければ、次のようになる。
- 条約改正:実現せず
- 外交準備:全権委任状をめぐる問題が発生
- 日程管理:当初予定を大幅に超過
- 国内政治:政府中枢の長期不在と留守政府との対立
- 欧米調査:詳細な視察記録を残した
- 長期的影響:その後の政策判断に一定の影響を与えた
このように見ると、「結果的に役立ったから偉業だった」というだけでは歴史評価として十分ではない。
歴史上の出来事は、後世の成功から逆算すると美しく整理されやすい。近代日本がその後国家体制を整えたため、岩倉使節団もその成功へ一直線につながる出来事として語られてきた面がある。
しかし、当時の時点に立てば、行き先も結果も保証されていなかった。新政府の有力者が国外へ出て、予定は大幅に延び、外交交渉は成果を得られず、帰国後には政権内部が分裂している。
そこまで含めて岩倉使節団を見る方が、むしろ明治という時代の実像に近づけるのではないだろうか。
まとめ
岩倉使節団は日本の近代化に影響を与えた重要な出来事だが、「日本を近代国家へ導いた成功した大使節団」とだけ評価するのは一面的である。
条約改正は実現せず、当初約10か月半だった日程は約1年10か月に延び、政府中枢の有力者が長期間国外に滞在した。その間、留守政府は国家建設を進め、帰国後には双方の対立が明治六年政変へ発展した。
さらに、欧米を直接見た日本人は岩倉使節団以前にも数多く存在し、幕府や各藩による海外視察と知識の蓄積はすでに始まっていた。岩倉使節団だけを日本近代化の原点とする見方も再検討する余地がある。
その功績を否定する必要はない。しかし、失敗や混乱を取り除いて「偉業」だけを残してしまえば、明治政府が抱えていた未熟さや政治的な危うさは見えなくなる。
岩倉使節団は、完成された国家が周到に実行した外交プロジェクトではなかった。新しい国家をつくろうとする人々が、時に大胆に、時に無謀ともいえる判断をしながら試行錯誤した時代を象徴する出来事として見る方が、その歴史的価値をより正確に理解できるだろう。
主な参考資料
- 国立公文書館「公文書の世界―銅版と出版物 岩倉使節団の記録」
- 国立公文書館「歴史資料の宝庫へ―岩倉使節団・国書御委任状」
- 国立公文書館「近代国家 日本の登場―岩倉使節団」
- アジア歴史資料センター「大臣参議及各省卿大輔約定書」
- アジア歴史資料センター「留守政府の活動にみる使節団遣欧中の政治と社会」
- 国立国会図書館「世界を見たサムライ達」
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像―西郷隆盛・板垣退助・江藤新平」
