耳で聞いた印象論が先行した“批判”
元宝塚歌劇団の女優・毬谷友子氏がSNSで高市早苗首相の英語スピーチを取り上げ、「次元が違う」と発言した。
しかし、このコメントは政治的な専門性に基づいたものではなく、週刊誌的な私見の域を出ない。
そもそも首相の英語発音を、俳優的な「発声」や「表現」の観点で評価すること自体が、外交現場を理解していない証左だ。
SNSや一部ネット記事では「訛り」「流暢さ」「聞き取りづらさ」といった表層的な論点ばかりが拡散された。
だが、政治の現場で求められる英語力は、ネイティブのような発音や語感ではなく、正確な理解と迅速な反応である。
それを最もよく示したのが、今回の日米首脳会談だった。
米下院スタッフとしての実務経験
高市首相の経歴を振り返れば、「英語ができない」という批判がいかに的外れかは明白だ。
1980年代、高市氏はアメリカ連邦議会の下院議員事務所で政策スタッフとして勤務していた。
当時、立法関連の資料作成、外交・経済政策のブリーフィングなどを英語で行い、米議会関係者と日常的に意見交換をしていた。
これは単なる留学や研修ではなく、英語を実務言語として使う職務経験である。
つまり、高市氏は「読む・書く・理解する」力を政治の現場で磨いてきた人材だ。
そのうえで、国内政治に軸足を移してもなお、国際会議では自ら英語で語る姿勢を貫いている。
こうした経歴を持つ首相に対し、「英語が通じない」と決めつけるのは、あまりに軽率だと言わざるを得ない。
通訳を訂正した首脳会談の一幕
先日行われた日米首脳会談では、興味深い場面があった。
通訳が高市首相の意図を誤って英語に訳した際、首相自らがその場で訂正を入れたのだ。
これは、内容を完全に理解していなければできない対応であり、即時の英語理解力と判断力を示すものだ。
政治の現場では、言葉のニュアンスが国家の立場を左右する。
たとえば「should」と「must」の違い一つで、国際的な合意の重みが変わる。
その微妙な差を瞬時に把握し、必要に応じて訂正できる政治家は、英語圏の首脳にも限られる。
通訳任せにせず、自ら発言の責任を取る姿勢は、むしろ一国の指導者としての自立性を示している。
発音より「伝わること」の価値
外交の場で最も重要なのは、発音の美しさではなく、意味が伝わることである。
英語を母語としない各国の首脳──ドイツのメルケル氏、インドのモディ首相、フランスのマクロン大統領──も、それぞれ訛りのある英語を使う。
それを批判する人はいない。なぜなら、発音よりも「何を伝えるか」が外交言語の本質だからだ。
高市首相の英語は、確かに日本語的な抑揚が残る。
しかし、文法・語彙・構文はいずれも明確であり、意味は十分に通じる。
母語のアクセントを残しつつ、自らの考えを直接伝えようとすることは、世界的には尊重される文化的自立の表れである。
日本社会の「英語コンプレックス」
問題は、高市首相の英語ではなく、それを笑う側の心理にある。
日本ではいまだに「ネイティブのように話すこと」こそが英語の到達点だという思い込みが根強い。
だが、世界の舞台では訛りのない英語など存在しない。
アジア、ヨーロッパ、中東、アフリカ──いずれのリーダーも、母語の響きを残した英語で堂々と発言している。
日本人が英語を「きれいに話す」ことにこだわりすぎるのは、戦後教育の弊害でもある。
英語を“正しく発音すること”ばかりが目的化し、“伝える力”が軽視されてきた。
高市首相のスピーチを揶揄する声は、そうした英語コンプレックスの裏返しに過ぎない。
政治家に必要なのは「通じる英語力」
政治の現場では、「聞き取れる」「理解できる」「誤訳を訂正できる」ことが最も重要だ。
それこそが“通じる英語力”であり、外交を動かす実務能力である。
完璧な発音でなくとも、言葉の意味を正確に把握し、相手の意図を読み取れる力があれば十分だ。
高市首相が米議会で培った英語力は、まさにこの“実務型英語”の典型である。
発音よりも中身。形式よりも意思。
それを理解せずに「次元が違う」などと語るのは、まさに現場を知らない批評と言わざるを得ない。
英語で笑われる日本から、英語で語る日本へ
高市首相のスピーチは、訛りではなく「自らの言葉で語る勇気」を象徴していた。
それは“通じる英語”を使って国益を守ろうとする姿勢であり、
通訳任せの政治から一歩進んだ、日本の外交リーダー像を体現している。
毬谷氏の発言は、国際政治を知らぬまま耳の印象だけで批判した週刊誌的コメントにすぎない。
しかしこの一件は、日本社会がいまだに抱える英語への劣等感を浮き彫りにした。
政治家の英語を笑うのではなく、「伝える力」こそ評価する時代へ。
高市早苗首相のスピーチは、その転換点を示したと言えるだろう。
